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《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-36- 「14打席連続出塁」の大記録樹立・南渕時高】
(36)「14打席連続出塁」の大記録樹立・南渕時高
天理高校から青山学院大、東芝を経て1989年ドラフト4位で入団した。24歳と遅いプロ入りだった。「プロ野球の世界は別世界だと思っていた」南渕にとって、不安が多かったというが最後のチャンスだと考えて入団を決意した。
年齢的に求められているのは即戦力としての力だった。評価されたのはミートの上手さと守備力。1年目こそプロのスピードに戸惑ったものの、2年目から一軍に定着し、堅実な守備と選球眼の高さ、そして持ち味である右方向へ運ぶバッティングを武器に一軍に定着した。
1993年、その選球眼の高さが大記録を生み、南渕時高の名前が新聞に躍った。張本勲、田淵幸一、松永浩美を超える、14打席連続出塁を4試合にわたって記録した。当時のNPB記録だった。14打席中、10打席が四球という南渕ならではの記録達成だった。
【打撃と選球眼磨いて一軍定着】
1年目はプロのスピードに慣れず、一軍には登録されたものの、わずか37試合の出場に終わり、大半は二軍暮らしだった。それでも持ち味は発揮して打率は.267、出塁率は.372だった。
ルーキーイヤーを二軍で磨いた2年目は開幕から一軍入り。当初は守備固めと代打での出場だったが、ショートの佐藤健一の低調もあり、スタメンのチャンスが回って来る。このシーズンはシーズン中に背番号が変更される。入団時から背番号は広島に移籍した高沢秀昭の付けていた「31」だったが、5月に高沢がロッテに復帰。高沢は空き番号だった7を付けたが、本人が31を希望し南渕も快諾してシーズン中に7に変更された。
2年目の1991年は佐藤健と併用され、104試合に出場して打率.248を記録。そして、3年目の1992年は9番・セカンドで自身初の開幕スタメン。しかし開幕5戦目に佐藤兼(健一から兼伊知に改名)が死球を受けて離脱し、南渕がショートに回る。南渕はそのままショートに定着し105試合に出場、規定打席には届かなかったものの362打席に立ち、打率.254を記録した。
【「14打席連続出塁」日本記録樹立】
4年目の1993年はトレードで中日から宇野勝が加入したために、開幕戦は途中出場となる。しかし、開幕直後に宇野が離脱。2番ショートでスタメン復帰する。しかし、状態が上がらず打率は1割台で低迷。宇野が復帰して再び控えに回る。しかし、その宇野も状態が上がらない状況で7月16日を迎えた。
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