《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-72- つなぎの4番の軌跡・サブロー】
(72)つなぎの4番の軌跡・サブロー (1995年~2011年、2012年~2016年在籍)
打線を長きにわたって支えたサブロー。その数字の多くは2006年以降も続いたが、頭角を現し「つなぎの4番」と呼ばれた4番に座り、チームを日本一に導いたのは11年目の2005年だった。
ルーキー時代から将来の打線の核にと期待されながら、ケガでなかなか定着できない時代も続いたが、最終的に22年間マリーンズの看板を背負った。今回はサブローの入団から2005年までの記憶を辿る。
【一年目から一軍も…】
将来の看板打者にという期待はルーキーイヤーから高かった。1年目の指揮官はバレンタイン監督。若手の積極起用の方針もあり、二軍では開幕からスタメン出場を果たす。外野手としての入団だったが、キャンプから内野に回りショートに入った。前年入団してショートの大塚がセカンドに回り、大塚と二遊間を組むデビューだった。
その後、内野と外野を掛け持ちで試合に出場。当初はヒットは出るものの散発で打率は上向かなかったが、ようやく二軍でプロの投手にも慣れ始めた6月、一軍から声がかかった。初出場は6月25日のダイエー13回戦(福岡D)、8番・レフトのスタメン抜擢だった。27日の西武14回戦(福井)で初安打、7月6日の近鉄14回戦(千葉マリン)では初盗塁も記録した。しかし、力の差は歴然だった。28試合に出場したが48打数9安打.で188。武器となる足も発揮出来ず、3盗塁を記録したが4盗塁死も記録した。「1年目は一軍に上がったものの、力のなさを痛感しましたよ。ただ、二軍でじっくり力をつけてやろうと改めて思いました」。サブローはルーキーイヤーをこう振り返る。
2年目の1996年もショートと外野を兼務。終盤に一軍に合流したものの出場は主にショートと外野の守備固めとしてわずか9試合、1打席に立っただけだった。
それでも二軍での成績から球団の期待は大きくなり、3年目の1997年から背番号は「2」を与えられ、守備も外野に固定される。キャンプから一軍に帯同し、自身初めて開幕を一軍で迎え、開幕戦では守備固めで出場を果たす。その後2試合でスタメンも果たし22試合に出場するも、9打席と打席に立つ機会も少なく、打率も.250に終わり5月下旬に二軍降格。シーズン終盤に再び
一軍に合流したものの、守備固めと代走が主な役割。33試合に出場し、打率は.179に終わった。
一軍定着を目指した4年目の1998年だったが、一軍登録ならず二軍で腰を据えて試合に出場した。その二軍ではトップバッターに座り規定打席に到達した。しかし、打率は.215と低調に終わった。それでも盗塁は大塚の31盗塁に次ぐ20盗塁を記録。ようやく足がかりをつかんだシーズンとなった。サブローも後年「4年目、じっくり二軍で経験したことは色々な意味で大きかった」と振り返るシーズンとなった。
【5年目のチャンス】
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?