《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(22)「20」野手の系譜から、杉下、堀本、木樽とタイトル投手の系譜へ】
(写真 左から、11代・今季9年目の東條大樹、2代・捕手として継いだ佃明忠、3代・ミサイル打線の要捕手谷本稔、6代・投手の系譜に変えた木樽正明、7代・先発ローテ守った仁科時成、9代・メジャーにも挑戦した在籍16年薮田安彦)
(22)「20」野手の系譜から、杉下、堀本、木樽とタイトル投手の系譜へ
背番号20も投手の系譜だが、創成期から大毎時代は野手の系譜だった。ミサイル打線の正捕手だった谷本稔も優勝時は20だった。その後、晩年だったが中日で200勝の杉下茂、V9巨人の最多勝・新人王の堀本律夫が移籍して投手の歴史としてスタートさせる。投手の系譜として定着させたのが木樽正明。そして、それは仁科時成、薮田安彦、現在の東條大樹のつながる。マリーンズとなってからは4投手が引き継いでいる、息の長い投手の背番号になっている。
----- 現在の背番号「20」 -----
★《11代》2016(H28)年~2024(R6)年・9年目 東條 大樹(とうじょう たいき) 投手(在籍9年目)
【東條 大樹 背番号変遷】20(9)
2015年のドラフト4位で社会人・JR東日本から入団した東條大樹が背番号20を引き継いでいる。
1年目の16(H28)年は4月下旬に一軍合流、5月1日の日本ハム戦(千葉マリン)でプロ初登板を果たす。しかし、状態は今一つで直ぐに抹消される。以降、一軍と二軍を往復し、ルーキーイヤーは11試合に登板し、0勝0敗1ホールド、防御率10.03だった。翌17(H299)年は初の開幕一軍入り。しかし、安定感を欠き、このシーズンも一軍と二軍を往復。最終的に12試合の登板で0勝0敗1ホールド、防御率6.88で終わった。18(H30)年は大半を二軍で過ごし、9月にようやく一軍登録。12試合の登板で0勝0敗2ホールドで終わる。ただ、防御率は1.54と安定していたところを見せた。
19(R1)年は開幕を2年ぶりに一軍で迎える。4月4日のソフトバンク戦(ヤフオク!D)では、プロ野球タイ記録となる1イニング4被弾を浴びる。しかし、5月25日のソフトバンク戦(ZOZOマリン)で自身初勝利を記録するなど、12試合連続無失点も記録。以降は登板機会も増加する。シーズン終盤に息切れして数字を落としたものの、シーズン通して一軍のマウンドに上がり、チーム2番目の58試合に登板し、1勝0敗16ホールド、防御率3.78を記録した。翌20(R2)年も開幕からマウンドに上がる。夏場に一時離脱したものの、39試合に登板し、1勝1敗5ホールド、防御率2.54と安定したピッチングを見せた。ところが、21(R3)年は状態が上がらず4月に一軍合流するも直ぐに抹消され、最終的にこのシーズンは5試合の登板に留まった。
22年は開幕一軍入り。安定したピッチングで7回のセットアッパーとして定着し、自身初のオールスターに選出される。しかし、新型コロナに感染して離脱し、オールスターも辞退する。復帰後は再び安定したピッチングを見せるも、シーズン終盤には右足首を痛めた影響もあったものの、自身最多となる59試合に登板し4勝4敗、防御率は2.08、リーグ3位タイの30ホールドと結果を残した。オフには右足首にメスを入れた。
23(R5)年は出遅れもあり序盤は状態が上がらない。8月にようやく一軍合流するも打ち込まれるケースが目立ち、9月初旬には抹消され、そのままシーズンを終えた。登板は11試合、防御率は7.45だった。しかし、CSのファイナルSの第2戦に登板。ピンチを断つ好投でポストシーズンで自身初の勝利投手となった。
(23年シーズン終了時)
<206試合、6勝5敗、防3.83、1S、58H、0先発、0完封、185奪三振>
※在籍時に記録した主な記録
◆1イニング4被本塁打(2019年4月7日)史上最多タイ
----- オリオンズ&マリーンズ「20」の系譜 -----
★《初代》1950(S25)年~1954(S29)年・5年 片岡 博国(かたおか ひろくに) 捕手(在籍5年/二軍監督・コーチ4年)
1916(T5)年11月24日生(入団時35歳)、右投右打
愛知・東邦商業学校−早稲田大−昭和製鋼−名古屋鉄道管理局−函館オーシャン−毎日(50〜54)
毎日/大毎コーチ(55〜57、59)
【片岡 博国 背番号変遷】20(5)、コーチ/60(2) ⇒ 61(1)、54(1)
球団創設に社会人・函館オーシャンから入団した片岡博国が初代背番号20を着けた。34歳でのプロ入りだった。
捕手も出来る内野の控えとして一軍開幕ベンチ入り。開幕3戦目3月15日の南海戦(大須)で7番一塁で初出場、初スタメン、初安打も記録する。その後も堅実なバッティングで一塁、代打で出場。捕手として5試合のマスクも被った。1年目は63試合に出場して打率.303と3割をマーク。4本塁打26打点を記録し、リーグ制覇に貢献。日本シリーズでも3試合でスタメン出場し、15打数4安打2打点を記録し日本一に貢献した。翌51(S26)年は第1回オールスターに出場したものの打撃が低迷。55試合に出場して打率.229に終わる。以降、52(S27)年は42試合で打率.271、53(S28)年は51試合で打率.160、54(S29)年は32試合で率.077に終わり、54年限りで引退した。
◆打撃成績<243試合、打率.239、393打数94安打、6本塁打、68打点、2盗塁>
◇初出場、初スタメン、初打席、初安打<1950(S25)年3月15日・南海1回戦/H(大須)/7番一塁/4打1安>
◇初本塁打、初打点<1950(S25)年3月16日・阪急1回戦/H(大須)/7番一塁/4打1安/天保義夫から>
◇オールスター出場/1回(51)
※1955(S30)年 空番
★《2代》1956(S31)年~1957(S32)年・2年 佃 明忠(つくだ あきただ) 捕手(在籍4年)
【佃 明忠 背番号変遷】19(2) ⇒ 20(2)
3年目を迎えた佃明忠が、1956(S31)年から背番号を19から20に変更した。
1、2年目とルイスが正捕手としてマスクを被っていたが、ルイスの退団で前年にイースタンで首位打者に輝いた佃に期待がかかった。その56(S31)年は正捕手争いに加わり、68試合でマスクを被ったが、打率は.198と低迷し、定位置獲得には至らなかった。57(32)年には早稲田実業の後輩の醍醐猛夫が入団し、1年目から正捕手に定着。佃の出番は大きく減らすし、オフには近鉄に移籍した。
<175試合、打率.222、423打数94安打、14本塁打、42打点、7盗塁>
※1958年(S33)年 空番
★《3代》1959(S34)年~1960(S35)年・2年 谷本 稔(たにもと みのる) 捕手(在籍7年)
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