見出し画像

《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-37- M初抑えタイトルから手術へ…・成本年秀】

(写真 1998年マリーンズファンブックから)


(37)マリーンズ初の最優秀救援投手から手術へ…・成本年秀

 クローザーだった河本育之が不調だった1994年にクローザーに指名されて代役を務め一本立ち。河本が復帰した1995年と1996年は河本とダブルストッパーとしてチームを支え、河本も届かなかった最優秀救援投手のタイトルをマリーンズ投手として初めて獲得した。力の河本に対して技の成本。好対照の2人が1995年の2位躍進を支えた。

 しかし。1997年のキャンプで右ヒジを痛めて長期離脱。メスを入れ復活を目指したが、球団の期待よりも復活へ時間がかかり戦力外通告を受け移籍。わずか7年の在籍だったが、球団歴代6位となる63セーブを記録した。

【ダブルストッパーとして】

 京都産業大学から大阪ガスへ入社。大学時代は故障もあり注目されながらもプロからの指名はなかった。しかし、都市対抗野球で完投勝利を挙げるなど活躍し、1992年ドラフト2位で入団した。
 ルーキーイヤーは開幕から一軍登録され期待された。主にリリーフとしてマウンドに上がり、チーム事情から先発も任されたが、ローテーションに加わることは出来ず1勝4敗0セーブで1年目を終えた。ただ、リリーフとしてのマウンド度胸は八木沢監督からも評価された。
 2年目の1994年はクローザーの河本がオープン戦から状態が上がらず、代わりに成本がクローザーに指名された。初セーブは4月17日のダイエー3回戦(千葉マリン)。先発・園川の後を受け6回からロングリリーフ。4回を無失点で初セーブをマークした。
 以降、河本の状態が上がらない中、次第に成本の比重が大きくなる。結局、47試合に登板し3勝6敗19セーブを記録した。

ここから先は

3,611字
この記事のみ ¥ 150
期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?