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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/55】「53」ベテラン、コーチの53から捕手の印象付けた2人の捕手

割引あり

(写真、中央・今季から53を引き継いだ16代木村優人、左上から・NPB史上初の20年目は53を背負った3代呉昌征、9年の現役後通算19年コーチを務めた植村義信は6代として7年53、7年在籍後パの審判に転身した8代桃井進、53歴代最長の13年背負った15代江村直也)


 ※名前横に【殿堂】は野球殿堂入りした選手、【サイン】がある選手は、サイン写真が掲出されています(クリックで拡大)

(55)「53」ベテラン、コーチの53から捕手の印象付けた2人の捕手

 背番号53。毎日・大毎時代は呉昌征、三宅宅三が、創成期に主軸としてチームを創り、晩年に変更して背負った歴史からスタートしている。その系譜はコーチが背負い、ロッテとなってからは短命の選手が続いた。
 川崎時代は後に審判となった桃井進が7年、ケガに泣かされた林博康が6年背負ったが、再び短命の選手が継いだ。捕手の江村直也が背番号53では最長となる13年背負ったが、江村のイメージが強いファンも多いのではないだろうか。
 今シーズンから背負う木村優斗には、53のイメージを新しく印象付ける活躍を期待したい。

----- 現在の背番号「53」 -----

 ★《16代》2024(S28)年〜・1年目 木村 優人(きむら ゆうと) 投手(在籍1年目)

  2005(H17)年6月1日(入団時18歳)、右投左打
  茨城・霞ヶ浦高−千葉ロッテ(24〜)

 【木村 優人 背番号変遷】53(1)
 2023(R5)年のドラフト3位で茨城・霞ヶ浦高校から入団した木村優人が、背番号53を引き継いだ。
 高校時代は2年秋からエースを務め、甲子園出場はならなかったが、23年のU−18ワールドカップ日本代表に選出され、リリーフとして好投し優勝に貢献した。

----- オリオンズ&マリーンズ「53」の系譜 -----

※1950(S25)~1954(S29)年 空番


 ★《初代》1955(S30)年・1年 柳瀬 文夫(やなせ ふみお) 投手(在籍1年)

  1936(S11)年3月28日生(入団時19歳)、 右投右打
  愛知・蒲郡高−岡崎高−立教大(中退)−毎日(55)

 【柳瀬 文夫 背番号変遷】53(1)
 1955(S30)年に立教大学を中退して入団した柳瀬文夫が、初代背番号53を背負った。
 堅実な守備と巧打に期待され、ルーキーイヤーの55(S30)年はシーズン最終盤に一軍初出場。10月12日の第1試合の東映18回戦(駒沢)に途中から三塁に入る。回った初打席でタイムリーを放ち初安打を含む2打数2安打を記録。初スタメンとなった第2試合でもヒットを放ち1年目のシーズンを終えた。翌年の飛躍が期待されたが、オフには退団し引退した。

 ◆打撃成績<3試合、打率.429、7打数3安打、0本塁打、1打点、0盗塁>
 ◇初出場、初打席、初安打、初打点<1955(S30)年10月12日第1・東映18回戦/R(駒沢)/途中三塁/2打2安/初打点適時打>
 ◇初スタメン<1955(S30)年10月12日第2・東映19回戦/R(駒沢)/7番三塁/3打1安>


 ★《2代》1956(S31)年・1年 長平良 功(ながひら いさお) 投手(在籍2年)

  1937(S12)年10月7日生(入団時18歳)、右投右打
  愛知・豊橋工業高−毎日(56〜48)

 【長平良 功 背番号変遷】53(1) ⇒ 49(1)
 1956(S31)年に愛知・豊橋工業高校から入団した長平良功が、背番号53を引き継いだ。
 ルーキーイヤーは若手軍で実績を積み、シーズン最終盤に一軍登録され、9月23日の東映20回戦(福井)に3番手として初登板。2回を無失点と好投し、10月3日の高橋21回戦(八王子)では初先発。3回を1失点とまずまずの内容を見せた。オフには背番号を53から49に変更した。

 ◆投手成績<2試合、0勝0敗、防1.80、1先発、0完封、4奪三振>
 ◇初登板<1956(S31)年9月23日・東映20回戦/H(福井)/3番手/2回0失>
 ◇初先発<1956(S31)年10月3日・高橋21回戦/R(八王子)/先発/3回1失>


 ★《3代》1957(S32)年・1年 【殿堂】呉 昌征(ご まさゆき/しょうせい) 外野手(在籍8年)

 【野球殿堂入り】野球殿堂特別表彰(1995年)

  1916(T5)年6月28日生(移籍時33歳)、左投左打
  台湾・台南州立嘉義農林学校‐巨人軍(37~43)‐阪神軍(44,46~49)‐毎日(50~57)

 【呉 昌征 背番号変遷】23(7) ⇒ 53
 → 呉昌征 背番号 23
 戦前から活躍し、毎日球団創設から主軸としてチームを引っ張ってきた呉昌征が、1957(S32)年に日本プロ野球界で初めてとなる20年目に突入(41歳)。すでにコーチとしての役割も担っており、背番号を23から53に変更した。
 レギュラーからは外れたものの、ベテランとして代打、代走で試合に出場。43試合に出場、51打席ながら打率.293を記録し、このシーズン限りで引退した。オフには初の20年選手として特別表彰を受けた。

 ◆打撃成績<722試合、打率.287、1664打数477安打、13本塁打、151打点、94盗塁>
 ◇毎日初出場、初スタメン、初打席、初安打<1950(S25)年3月11日球団第1戦・西鉄1回戦/H(西宮)/1番左翼/5打3安>
 ◇毎日初本塁打、初打点<1950(S25)年3月20日・西鉄2回戦/H(後楽園)/2番左翼/川崎徳次から/4打1安>
 ◇オールスター出場/2回(51,53)

 ※在籍時に達成した主な記録
  ◆16試合連続得点(1950(S25)年5月15日~6月21日)
  ◇1000試合出場(1950(S25)年5月1日・大映5回戦(後楽園)、史上2人目)
  ◇1000安打(1951(S26)年6月3日・東急3回戦(後楽園)寺川昭二から、史上7人目)
  ◇300盗塁(1950(S25)年5月25日・西鉄9回戦(下関)、史上初)
  ◇350盗塁(1952(S27)年9月16日・東急18回戦(川崎)、史上初)
  ◇1500試合出場(1955年5月12日・大映6回戦(後楽園)、史上3人目)


 ★《4代》1958(S33)年〜1959(S34)・2年 三宅 宅三(みやけ たくぞう) 外野手、コーチ(在籍9年、コーチ1年)

  1921(T10)年2月22日生、(入団時29歳)、右投右打
  岡山・旧制玉島中−明治大−倉敷工業高監督−毎日(50〜58)
  大毎/東京コーチ(59、63〜65)

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