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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/「8」看板打者の系譜】

割引あり

(8)「8」看板打者の系譜

 背番号8の歴史は初代・戸倉勝城から始まった。球団創設第1戦の4番打者、パ・リーグ第1号も記録した。2代・山内和弘はミサイル打線の核となった。ベストナイン9度を誇ったが「世紀のトレード」で移籍し、阪神で2000本安打を達成した。5代・有藤通世は大型三塁手として入団。「ミスターロッテ」と称され大卒としてはパ・リーグ初めての2000本安打達成者となった。10代・今江敏晃はFAにて移籍するまで14年間在籍し1424安打を記録し、2024年から楽天の監督を務める。
 背番号8は間違いなく看板打者の系譜だ。だから、中村奨吾にはさらに大きく育って欲しい。

----- 現在の背番号「8」 -----

 ★《11代》2017(H29)年~・2024年は8年目 中村 奨吾(なかむら しょうご) 内野手(在籍10年目)

  1992(H4)年5月28日生(入団時22歳)、右投右打
  (出身・兵庫)奈良・天理高‐早稲田大‐千葉ロッテ(15~)

 【中村 奨吾 背番号変遷】23(2) ⇒ 8(7)
 → 中村奨吾 背番号 23 へ(有料エリア)
 2014(H26)年のドラフト1位で早稲田大学から入団し、背番号23を着けていた中村奨吾が3年目の17(H29)年から背番号8に変更した。ルーキーイヤーから111試合、108試合と三塁を主体に試合に出場し、レギュラー定着へ頭角を現わしていた。
 17(H29)年は鈴木大地が二塁に回り、遊撃のレギュラー争いを展開。9番遊撃で2年連続開幕スタメンもヒットが出ず登録抹消。その後再登録され少しずつ状態を上げ、85試合に出場し.275、9本塁打32打点だった。
 18(H30)年には鈴木がFAで移籍し、中村が二塁に回る。新任の井口資仁監督も中村を二塁に固定することを宣言する。3番二塁で開幕スタメンに名前を連ねると、そのまま定着しオールスターにも初出場する。最終的に、自身初の全試合出場および規定打席到達を果たし、.284、8本塁打、39盗塁という成績を残した。また、二塁手ではリーグトップとなる守備率.993を記録し、自身初となるゴールデングラブ賞を受賞した。翌19(R1)年も全試合出場を果たすも打撃は好不調に波があり.232(リーグ30位)に終わる。ただ、本塁打は自身初の二桁となる17本を放った。翌20(R2)も全試合出場を果たしたが、打率は.249に終わる。しかし、守備の評価は変わらず高く2度目のゴールデングラブ賞を受賞。二塁手が1人で複数回受賞したのは球団初だった。
 22(R4)年も開幕スタメン出場も直後にPCR検査で陽性となり、8を背負った1年目の17(H20)年6月28日から続いていた連続出場が630試合でストップした。このシーズンは.257(リーグ15位)、翌23(R5)年も137試合に出場し.220(リーグ22位)だったが、2年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞した。

 (23年シーズン終了時)
 ◆打撃成績<1128試合、打率.251、3825打数959安打、85本塁打、426打点、106盗塁>
 ◇初出場<2015(H27)年3月29日・ソフトバンク3回戦/R(ヤフオク!D)/代走DH>
 ◇初打席<2015(H27)年4月2日・日本ハム3回戦/H(QVCマリン)/代打/1打0安>
 ◇初スタメン、初安打<2015(H27)年4月8日・オリックス2回戦(京セラD)/9番二塁/3打1安>
 ◇初打点<2015(H27)年4月12日・西武3回戦(プリンスD)/代走DH/適時打>
 ◇初本塁打<2015(H27)年4月30日・西武5回戦(QVCマリン)/1番三塁/ルブランから・先頭打者本塁打(新人球団史上初)>
 ◇オールスター出場/2回(18,21)

 ※在籍時に選出された
  ◆ベストナイン(2021年/二塁)
  ◆ゴールデングラブ賞(2018年、21年、23年/二塁)
 ※在籍時に達成した記録
  ◆シーズン22死球(2018年)球団記録、NPB歴代5位
  ◆全打順本塁打(2022年6月1日、史上15人目)
  ◇1000試合出場(2023年4月11日、史上519人目)

----- オリオンズ&マリーンズ「8」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年・1年 戸倉 勝城(とくら かつき) 外野手(在籍/現役1年、監督/1年)

  1914(T3)年11月3日(入団時35歳)、右投右打
  山口・豊浦中‐法政大‐ 大連満州倶楽部‐大洋漁業‐毎日(50)‐阪急(51~58)
  東京監督(67)、他球団監督/阪急(59~62)

 【戸倉 勝城 背番号変遷】8(1)、50(途中)
 球団創設時に社会人・大洋漁業から35歳で入団した戸倉勝城が初代背番号8を着けた。
 開幕戦では初代4番を務め、初打席で2ランを放ち、初打席初本塁打とパ・リーグ第1号本塁打を記録する。以降も4番として打線を引っ張り、7月にはナイターでパ・リーグ第1号本塁打も記録する。最終的に打率.263ながら21本塁打96打点、盗塁も22個を決め、チームのリーグ初代王者、日本シリーズ初代王者に貢献した。オフにはベストナインにも選出された。
 翌51(S26)年も毎日に所属する予定でキャンプを兼ねたリーグ代表チームのハワイ遠征に参加する。その帰国時に阪急への移籍を伝えられ阪急に移籍した。前年圧勝した毎日に対し、戦力均衡の批判が出たことと、湯浅禎夫監督が戸倉の将来のために若いチームで指導者的な立場を兼ねさせようとの意向があった。
 阪急で監督も担った後、67(S42)年には監督として東京オリオンズに復帰した(背番号は50)。

 ◆在籍時打撃成績<110試合、打率.263、414打数109安打、21本塁打、96打点、22盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席、初安打、初本塁打、初打点<1950(S25)年3月11日開幕戦・西鉄1回戦/H(西宮)4番右翼/5打2安/初打席初本塁打初打点・木下勇から、パ1号>

 ※在籍時に達成した主な記録
  ◆パ・リーグ第1号(1950(S25)年3月11日・西鉄1回戦(西宮)木下勇から、初打席)
  ◆ナイターパ・リーグ第1号(1950(S25)年7月5日・大映10回戦(後楽園)スタルヒンから)


※1951(S26)年 空番


 ★《2代》1952(S27)年~1963(S38)年・11年 【殿堂、サイン】山内 和弘(やまうち かずひろ) 外野手(在籍11年)

 ※1962(S37)年から 山内和弘 ⇒ 一弘 に登録名変更
 【野球殿堂入り】野球殿堂競技者表彰(2002年)

左・東京スポーツ新聞社、右・当館所蔵サインボール

  1932(S7)年5月1日(入団時)、右投右打
  愛知・起工業高‐川島紡績‐毎日(52~63)‐阪神(64~67)‐広島(68~70)
  監督歴/ロッテ(79~81)、中日(84~86)

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