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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(16)「14」球団創設から続く主力投手の系譜】

割引あり

(写真 左から、19代・現在14の小島和哉、球団創成期にフル回転した、上)初代・佐藤平七、下)2代・山根俊英、13代・前期V2貢献した奥江英幸、15・17代・エースとしてリリーフとして活躍した小宮山悟、18代・大谷智久)


(16)「14」球団創設から続く主力投手の系譜

 球団創設時から背番号14は主力投手が続く系譜だ。佐藤平七、山根俊英から始まり奥江英幸、小宮山悟、大谷智久へとつながっている。大きな特徴として小宮山初め、田中 由郎、長島哲郎、高橋薫、大谷智久ら即戦力と期待されるルーキーに与えられてきた番号でもあった。
 また、引退後プロボーラーに転向し、日本ボウリング史上ナンバーワンのサウスポーと言われた龍隆行も背番号14を継いだ一人だった。

----- 現在の背番号「14」 -----

 ★《19代》2022(H4)年~2024(H6)年・3年目 小島 和哉(おじま かずや) 投手(在籍6年目年)

  1996(H8)年7月7日生(入団時22歳)、左投左打
  浦和学院高‐早稲田大‐千葉ロッテ(19~)

 【小島 和哉 背番号変遷】43(3) ⇒ 14(3)
 →小島和哉 背番号43 へ(有料エリア)
 2018(H30)年に早稲田大学から入団し、4年目を迎えた小島和哉が背番号を43から14に変更した。前年にローテーションの一角として、自身初の二桁10勝を挙げた。
 4年目の2022(R4)年も開幕からローテーション入り。ところが、開幕から打線とのかみ合わせが悪く、また、リリーフ陣がつかまるなど、開幕から9試合に先発しながら防御率2.67で0勝5敗と白星に見放される。6月10日に初勝利も再び黒星街道が続いた。最終的に前年と同じ24試合に先発し3勝11敗と大きく負け越したが、防御率は3.14でリーグ6位だった。
 翌23(R5)年は開幕先発を石川歩が回避、佐々木朗希がWBC参加のため、小島が初の開幕投手に指名される。開幕戦は黒星を喫したものの、以降は安定したピッチングで5連勝。その後調子を落としたもののシーズン通してローテーションを守り、Aクラス入りをかけた楽天との最終戦に先発。7回無失点でCS出場を手繰り寄せた。最終的にリーグ最多となる25試合に先発し10勝6敗、防御率は3.47だった。

 (23年シーズン終了時)
 ◆投手成績<103試合、33勝34敗、防3.58、0S、0H、103先発、2完封、423奪三振>
 ◇初登板、初先発<2019(R1)年4月4日・西武3回戦/R(メットライフD)/先発/2回8失●>
 ◇初勝利<2019(R1)年8月14日・日本ハム19回戦/R(東京D)/先発/6回1失>
 ◇初完投<2021(R3)年9月11日・楽天20回戦/H(ZOZOマリン)/先発/9回1失無四球>
 ◇初完封<2021(R3)年9月19日・日本ハム17回戦/R(札幌D)/先発/9回0失>

----- オリオンズ&マリーンズ「14」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1952(S27)年・3年 佐藤 平七(さとう へいしち) 投手(在籍3年)

  1917(T6)年7月15日(入団時32歳)、右投右打
  北海道・育英商業学校−法政大−函館オーシャン−毎日(50〜52)−阪急(53〜54)

 【佐藤 平七 背番号変遷】14(3)
 球団創設時に社会人・函館オーシャンから入団した佐藤平七が背番号14を着けた。
 1年目の50(S25)年から、先発の一角としてマウンドに上がる。初登板は球団創設3試合目・3月15日の南海戦(大須)の先発だった。この試合は5回途中で降板したものの、6日後の21日の東急戦(保土ヶ谷)に先発し、7回1失点で初勝利を挙げた。以降、シーズン通してローテーションを守り、防御率4.08(リーグ22位)ながら、9勝4敗、日本シリーズでは第3戦に先発(勝敗なし)し、初代日本一に貢献した。
 2年目の51(S26)年は第1回のオールスターに出場。先発ローテーションで20試合に先発、9勝5敗、防御率も3.32(リーグ18位)だった。しかし、3年目の52(S27)年は故障もあり2試合の登板に留まったが、打撃が良かったため打者としても試合に出場した。オフに阪急へ移籍した。
 ◆在籍時投手成績<56試合、18勝9敗、防3.83、40先発、2完封、110奪三振>
 ◇初登板、初先発<1950(S25)年3月15日・南海1回戦/H(大須)/先発/3.2回4失勝敗なし>
 ◇初勝利<1950(S25)年3月21日東急1回戦/H(保土ヶ谷)/先発/7回1失>
 ◇初完投<1950(S25)年4月29日・東急6回戦/R(後楽園)/先発/9回3失>
 ◇初完封<1950(S25)年5月15日・西鉄6回戦/H(後楽園)/先発/9回0失>
 ◆在籍時打撃成績<66試合、打率.240、100打数24安打、1本塁打、12打点、1盗塁>
 ◇オールスター出場/1回(51)


※1953(S28)年 空番


 ★《2代》1954(S29)年~1958(S33)年・5年 山根 俊英(やまね としひで) 投手(在籍9年)

  1928(S3)年3月1日生(入団時22歳)、右投右打
  旧制鳥取・鳥取第一‐旧制鳥取農林専門学校‐鐘淵化学‐毎日(50~58)

 【山根 俊英 背番号変遷】41(4) ⇒ 14(5)
 → 山根俊英 背番号 41 へ(有料エリア)
 5年目を迎えた山根俊英が背番号を41から14に変更した。3年目の52(S27)年にフル回転して12勝を挙げたものの、前年は一転して不調に陥っていた。
 背番号を14に変更した54(S29)年は故障も重なり、わずか3試合の登板に終わる。しかし翌55(S30)年は開幕3戦目で7回のロングリリーフで勝利を挙げ、復活の気配を見せる。先発にも回るが状態が上がらず一時離脱。シーズン中盤に復帰し、先発、リリーフとマウンドに上がり、最終的に3勝5敗、防御率は2.37と好投を見せる。翌56(S31)年は先発15試合、リリーフ18試合に登板。規定投球回には届かなかったものの、防御率は自身初の1点台となる1.42と好投した。
 しかし、57(S32)年は再び離脱時期もあり主にリリーフとして登板。24試合(5先発)に留まり3勝4敗、翌58(S33)年は4試合に登板に終わり、オフに引退した。

 ◆投手成績<170試合、30勝30敗、防2.92、70先発、2完封、220奪三振>
 ◆打撃成績<202試合、打率.188、208打数39安打、0本塁打、19打点、3盗塁>
 ◇初登板<1951(S26)年4月6日・大映1回戦/R(後楽園)/2番手/1回0失>
 ◇初先発、初完投<1951(S26)年4月21日・西鉄3回戦/R(平和台)/8回3失●>
 ◇初勝利<1951(S26)年7月27日・大映11回戦/R(後楽園)/先発/6.1回2失>
 ◇初完封<1951(S26)年8月26日・東急16回戦/R(後楽園/先発/6回0失 6回裏終了降雨コールド>
 ◇オールスター出場/1回(52)


※1959(S34)年 空番


 ★《3代》1960(S35)年~1961(S36)年・2年 佐々木 勝利(ささき かつとし) 投手(在籍3年)

  1941(S16)年6月15日生(入団時18歳)、右投右打
  岩手・宮古高−大毎(60〜62)−広島(63〜69)

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