《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-41-裏から支えたバイプレーヤー・諸積兼司】
(41)裏から支えたバイプレーヤー・諸積兼司(1994年~2006年在籍)
タイムリーを放ち守備位置に着く際、外野スタンドから「モーロ!モーロ!」とファンは飛び跳ねながらコールを送る。すると、諸積も一緒にジャンプして手を上げて応える姿が印象的だった。
2000年以降は代走、守備固めとしてチームを支える役割が多くなった。開場してスタンドにお客さんが入ってから急な雨で中止になると、真っ先にグランドに飛び出した。ダイヤモンドを一周してホームに水しぶきを上げてヘッドスライディング。ベンチのナインもやんやの喝さい。まさしくムードメーカーだった。諸積は「レギュラーにやらせる訳にはいかないからね。ファンに喜んでもらうことが僕の仕事だから」。
現役後半は裏でチームを支える地味な役割に徹したが、常にムードメーカーとしてベンチを鼓舞した。2006年で現役を退いたが、前年は自らを表舞台に引き上げたバレンタイン監督を胴上げした。「運が良かっただけ」と自らを表したが、それだけではなかった諸積兼司の姿を思い出したい。
【2年目の抜擢】
「自分は春先は調子が良いタイプ。1年目はキャンプで状態が良かった」。法政大から日立製作所へ進み、社会人時代はスポニチ大会で首位打者を獲得した実績があったたけに、即戦力として期待された。背番号は球団初代の「00」が用意された。
キャンプからその力を見せ、オープン戦では新しい切り込み隊長として起用された。しかし、自身はオープン戦が進むにつれ、不安になっていたという。「オープン戦も進んでくると、皆本来の力を出して来た。『力の差は歴然』と感じた」。開幕一軍切符をつかみ、開幕1、2戦目は出番がなかったが、3戦目で1番・センターでスタメン起用された。そのプロ初打席で初ヒットを記録した。しかし、第2、3打席は三振。その後3試合に起用されたが結果を出せず、登録を抹消された。結局、1年目の1994年は4試合の出場に終わり、シーズンの大半を二軍で力を蓄えた。「力の差を埋めるためには出直さなければと思っていた。とにかく練習をした」。
そして2年目の1995年、キャンプは一軍に合流した。しかし、キャンプ中に父親が急死し、緊急帰国した。喪主を務めて10日間休んだ。そこから一軍か二軍に再合流する手もあったが、留守組がいる浦和球場に合流し、自分のペースで体づくりをやり直すことにした。当然、開幕一軍には間に合わなかったが、これが奏功した。
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