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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜4/「4」 職人肌野手と助っ人の系譜】

割引あり

(写真 中央・2024年から4を背負う19代友杉篤輝、左上から・引退後トール島大酋長となった初代相沢進、二塁守備の職人だった8代井上洋一、右上から・マスクも被ったランボーこと10代ディアズ、小坂と鉄壁の二遊間を組んだ14代酒井忠晴、ゴールデングラブ賞を2度受賞した17代荻野貴司)


  ※名前横の【サイン】は、当館所蔵のサインの掲出があります。

(4)「4」職人肌野手と助っ人の系譜

----- 現在の背番号「4」 -----

 ★《19代》現在・2024(R6)年から1年目 友杉 篤輝(ともすぎ あつき)  内野手(在籍2年目)

  2000(H12)年11月7日生(入団時22歳)、右投右打
  (出身・大阪)島根・立正大学淞南高‐天理大学‐千葉ロッテ(23~)

 【友杉 篤輝 背番号変遷】10(1) ⇒ 4(1)
 → 友杉篤輝 背番号 10 へ
 2022年のドラフト2位で天理大学から入団し、10を着けていた友杉篤輝が2024(R6)年から4に変更し、レギュラー定着を狙う。ルーキーイヤーの23(R5)年は開幕から一軍ベンチ入り。最終的に64試合に出場し、打率.254だった。
 背番号を4に変更した24(R6)年は9番遊撃で開幕スタメンに名前を連ねる。開幕から打撃好調で5月まで2割台後半をキープする。しかし、6月に入ると徐々に状態を落とし打率も下げていく。9月に入るとベンチに控える試合も増え、代走、守備固めでの出場が増える。最終的に125試合に出場したものの、打率.206に終わった。

 (2024(R6)年 シーズン終了時)
 ◆打撃成績<189試合、打率.222、540打数120安打、0本塁打、24打点、20盗塁>
 ◇初出場、初打席<2023(R5)年4月1日・ソフトバンク2回戦/R(PayPayD)/代打/四球)
 ◇初スタメン、初安打<2023(R5)年4月2日・ソフトバンク3回戦/R(PayPayD)/2番遊撃手/4打1安>
 ◇初打点<2023(R5)年4月18日・日本ハム4回戦/R(エスコンF)/2番遊撃/適時打/5打3安>


----- オリオンズ&マリーンズ「4」の系譜 -----

※1950年空番

 ★《初代》1951(S26)年~1952(S27)年・2年 相沢 進(あいざわ すすむ) 投手(在籍4年)

  1930(S5)年6月9日生(入団時19歳)、右投右打
  ミクロネシアパラオ島・南洋中-神奈川・湘南中学(現湘南高校)-毎日(50~53)-高橋(54~56)

 【相沢 進 背番号変遷】37(1) ⇒ 4(2) ⇒ 37(1)

 → 相沢進 背番号37(初代) へ(試読エリア)
 日本人は4という数字を避けたがるが、そのためか球団創設年は空番となった。球団2年目に前年1年目に登板のなかった37番の相沢進が心機一転のために変更して着け、初代4番が誕生した。しかし登板機会なく4年目の53(S28)年に再び37を着けた。
 引退後、生まれた育ったミクロネシア連邦チューク諸島(トラック諸島)トール島に戻り、実業家として成功し大酋長に選出され、後年はチューク州首長会議の議長を務めた。
 → 相沢進 背番号37(3代) へ(有料エリア)

 ◆在籍時投手成績<3試合、5.1回、0勝0敗、防10.13、0先発、0完封、2奪三振>
 ◆在籍時打撃成績<3試合、打率.000、1打数0安打、0本塁打、0打点、0盗塁>
 ◇初登板<1953(S28)年7月25日・南海11回戦(後楽園)4番手>


 ★《2代》1953(S28)年~1959(S34)年・7年 沼沢 康一郎(ぬまざわ こういちろう) 捕手・外野手(在籍7年)

  1930(S15)年8月15日生、右投右打
  北海道・旧制函館中/函館高‐早稲田大学‐毎日(53~59)

 【沼沢 康一郎 背番号変遷】4(2) ⇒ 24(開幕前まで) ⇒ 4(5)
 ※1956(S31)年は24と資料により登録されているが、開幕前に4に戻しているため、背番号は4で統一した。

 早稲田大学から大型捕手として期待され、1953(S28)年に入団した沼沢康一郎が、背番号4を引き継いだ。
 土井垣武という絶対的な正捕手がいたため、1年目の53(S28)年の登録は外野手、初スタメンも外野手として出場を果たす。その後マスクも被るが土井垣に代わることは出来ず、38試合に出場したが捕手としては20試合に留まる。
 土井垣が東映に移籍した54(S29)年は捕手登録となる。しかし、ハワイからの助っ人チャーリー・ルイスが入団して控えに甘んじる。代打と外野が中心となり、43試合(捕手16試合)に出場し打率.288、1本塁打4打点だった。オフには背番号を24に変更した。
 翌55(S30)年は開幕前に背番具を4に戻す。再び外野起用が増え69試合に出場したが、マスクを被ったのは4試合だけだった。打率.204、1本塁打14打点だった。
 56(S31)年は再び外野手登録されたが、ルイスの状態が上がらず捕手としての出場が多くなる。このシーズンは90試合に出場したが、捕手としても48試合のマスクを被った。57(S32)年は再び捕手登録。しかし、ルーキーの醍醐猛夫が正捕手となり第2捕手として控えに回り、このシーズンは46試合の出場に留まる。58(S33)年は大映との合併により、大映の谷本稔が加入し、第3捕手となる。外野も強化され出場機会をさらに減らし30試合、59(S34)年は10試合と減らし、59(S34)限りで引退した。情報収集に熱心で、出場していない試合でもメモを取り、チームにデータを提供した。

 ◆打撃成績<326試合、打率.209、513打107安打、4本塁打、45打点、11盗塁>
 ◇初出場、初打席、初安打<1953(S28)年3月21日開幕戦・南海1回戦/H(後楽園)/代打/1打1安>
 ◇初スタメン<1953(S28)年3月22日・南海2回戦/H(後楽園)/1番左翼/2打0安>
 ◇初打点<1953(S28)年6月27日・大映12回戦/R(後楽園)/6番捕手/適時打/4打1安>
 ◇初本塁打<1954(S29)年10月16日・近鉄19回戦/H(甲府緑が丘)/代打/山下登から>


※1955(S30)年 空番


 ★《3代》1960(S35)年~1962(S37)年・3年 柳田 利夫(やなぎだ としお) 内野手(在籍5年)

  1936(S11)年8月18日生、右投右打
  福島・内郷高‐常磐炭鉱‐大毎(58~62)‐巨人(63~67)‐南海(67~70)

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