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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜(12)/「10」投手の系譜から打者の系譜へ、3000本安打の張本勲も背負う】

割引あり

(写真 左から、20代10番のルーキー上田希由翔、3代・三浦 方義、10代・左腕エース水谷則博、11代・前人未到の3000本安打達成時の張本勲、16代・打線の核だった大松尚逸)


(12)「10」投手の系譜から打者の系譜へ、3000本安打の張本勲も背負う

----- 現在の背番号「10」 -----

 ★《20代》2024年は1年目 上田 希由翔(うえだ きゅうと) 内野手(在籍1年目)

  2001(H13)年8月12日(入団時22歳)、右投左打
  愛知・愛知産業大三河高−明治大−千葉ロッテ(24〜)

 【上田 希由翔 背番号変遷】10(1)
 22代・背番号10は期待のかかるルーキーが背負う。明治大学から2023年ドラフト1位で入団。愛産大三河高校時代は通算46本塁打を放ち、明治大学では1年秋から4番に座り、3年時の2002年には春秋連覇に貢献した期待の左のスラッガー。和製大砲誕生へ期待が高まる。

 ◇初出場、初スタメン、初打席<2024(R6)年4月3日・ソフトバンク2回戦/R(PayPayD)/6番一塁/
 ◇初安打<2024(R6)年4月4日・ソフトバンク3回戦/R(PayPayD)/
 ◇初打点<2024(R6)年4月12日・楽天1回戦/R(楽天モバイル)/左犠飛

----- オリオンズ&マリーンズ「10」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1951(S26)年・2年 浅井 守(あさい まもる) 投手(在籍3年)

  1924(T13)年7月4日生(入団時25歳)、左投左打
  岐阜・旧制武義中−旧制大日本武徳会武道専門学校(京都武専)−栗本製薬−東洋産業−毎日(50〜52)

 【浅井 守 背番号変遷】10(2) ⇒ 37(1)
 初代背番号10は社会人・東洋産業から球団創設時に入団した浅井守投手が背負った。
 1年目は開幕直後に初登板も1試合だけの登板に終わる。2年目の51(S26)年は8月に一軍合流し、19日の西鉄12回戦(武蔵野)に初先発。以降、先発を担う。3試合目の先発となった9月6日の西鉄15回戦(後楽園)では8回3失点で初勝利を挙げたが、最終的に4試合の登板に留まった。オフに背番号を37に変更した。
 → 浅井守 背番号 37 へ(試読エリア)

 ◆投手成績<5試合、1勝0敗、防2.89、4先発、0完封、6奪三振>
 ◇初登板<1950(S25)年3月21日・東急1回戦/H(横浜保土ヶ谷)/2番手/2回2失>
 ◇初先発<1951(S26)年8月19日・西鉄12回戦/H(武蔵野)/先発/4.1回3失勝敗なし>
 ◇初勝利<1951(S26)年9月6日・西鉄15回戦/H(後楽園)/先発/8回3失>
 ◆打撃成績<5試合、打率.000、8打数0安打、0本塁打、0打点、0盗塁>


 ★《2代》1952(S27)年~1957(S32)年・6年 清水 宏員(しみず ひろかず) 投手(在籍6年)

  1933(S8)年4月14日(入団時18歳)、右投右打
  京都・平安高−毎日(52〜57)

 【清水 宏員 背番号変遷】10(6)
 平安高校ではエースとして1951(S26)年春夏の甲子園に出場。夏の優勝投手として入団し、背番号11を引き継いだ。
 1年目は1試合の登板だったものの初登板で初勝利。2年目の53(S28)年はリリーフを中心に23試合に登板。54(S29)年はシーズン中盤からローテーションに加わり7勝をマークした。しかし、翌年以降は20試合、5試合、8試合と登板機会も減り、57(S32)年限りで引退した。
   
 ◆投手成績<65登板、10勝7敗、防3.54、22先発、2完封、90奪三振>
 ◇初登板、初先発、初勝利<1952(S27)年9月23日・大映21回戦/R(後楽園)/先発/4回1失>
 ◆打撃成績<87試合、打率.186、59打数11安打、0本塁打、1打点、0盗塁>


 ★《3代》1958(S33)年~1962(S37)年途中・4年8ヶ月 三浦 方義(みうら まさよし) 投手(在籍5年)

  1933(S8)年8月23日生(移籍時24歳)、右投右打
  青森・五戸高−巨人(52〜55)−大映(56〜57)−大毎(58〜62)
  大毎/東京/ロッテコーチ(63〜65、68、73)

 【三浦 方義 背番号変遷】10(4+途中) ⇒ 63(途中)、コーチ/66(3)、56(1)、82(1)
 巨人入団後、大映に移籍していた三浦方義が1958(S33)年の毎日と大映の合併に伴い移籍し、背番号10を継いだ。大映時代の1956(S31)年には29勝(当時のリーグ記録)を挙げ最多勝を獲得していた。
 移籍1年目の58(S33)年は開幕5戦目に先発するなど、ローテーションの一角と期待されてシーズンイン。5月からは先発とリリーフにフル回転。最終的に大毎1年目は42試合に登板して11勝8敗、防御率は2.78と奮闘した。しかし、翌59(S34)年は打ち込まれるケースが目立ち、34試合のマウンドに上がったが3勝8敗、防御率は4.03と数字を落とした。この頃からヒジの状態が悪化。リーグ優勝を果たしたチームを横目に60(S35)年は2試合、61(S36)年は6試合の登板に留まった。
 復活を期した62(S37)年はシーズン中盤に背番号を10から63に変更。中盤に合流し18試合に登板。防御率は1点台と好投。しかし、8月5日の南海戦(大阪)に先発したが1回を投げ終わったところで降板。そのまま引退しコーチとなった。

 ◆在籍時投手成績<103試合、15勝18敗、防3.13、42先発、5完封、168奪三振>
 ◇大毎初登板、初先発<1958(S33)年4月17日・阪急2回戦/H(後楽園)/先発/6回3失●>
 ◇大毎初勝利<1958(S33)年4月22日・東映1回戦/R(駒沢)/先発/7回2失(自責1)>
 ◇大毎初完投<1958(S33)年5月9日・東映5回戦/R(後楽園)/先発/9回2失(自責0)>
 ◆在籍時打撃成績<105試合、打率.037、82打数3安打、0本塁打、2打点、0盗塁>


 ★《4代》1962(S37)年・5ヶ月 宇野 光雄(うの みつお) 監督(在籍2年)

  1917(T6)年4月10日生(コーチ就任時)、右投右打
  和歌山・旧制和歌山中−慶應義塾大−藤倉電線−巨人(47〜48)−新東宝−巨人(50〜53)−国鉄(54〜56)
  他球団監督/国鉄(56〜60)、大毎監督/61〜62

 【宇野 光雄 背番号変遷】30(1+途中) ⇒ 10(途中)
 1961(S36)年に西本幸雄の後を継いで監督となった宇野光雄が、背番号30を背負っていたが、2年目の62(S37)年もチームの状態が上がらないことから、シーズン中の三浦の引退で空番となった10に変更して引き継いだ。
 しかし、前年の4位に続き、このシーズンも4位の終わり、このシーズン限りで退任した。

 ◆在籍時監督成績(61(S36)年~62(S37)年)
  <272試合、132勝136敗4分、勝率.493、4位2回>


 ★《5代》1963(S38)年・1年 大坂 雅彦(おおさか まさひこ) 内野手⇒外野手(在籍7年)

  1941(S16)年11月28日生(移籍時21歳)、右投右打
  徳島・徳島商業高−近鉄(60〜62)−大毎/東京/ロッテ(63〜69)

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