10年ぶりに死んだばあちゃんとお茶してきた話
”自分の人生は、自分で決める。”
自分の人生を自分の足で歩こうとしたとたん、絶賛行き詰まり中です。
自分の意思らしきものを見つけては、選択の試行錯誤を繰り返してみたけれど、いかんせん選択肢の精度が悪いらしく、わりかしすぐに行き詰まる。
私は神経質というか、割と細かいところまで気にするタチだと思う。
側からしたらどうでもいいような事で引っかかるし、時間をかけて悩んでしまう。
納得しないと次に進めないから、悩んで、調べて、考えて、検討する。
それなのに結局、悩み尽くしてでた結論が悩む前の結論と一緒だったりして、一番大切な時間を無駄にしているのだから我ながら馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。
こうしてまた1年を棒に振ってしまった、気がする。
なんだかなぁ…。
このモヤモヤを誰かに話を聞いて欲しいと思ったけれど、あまりに不毛すぎて誰かに話すのも申し訳なくて、モヤモヤが更に募る。
そうだ!
お墓まいりに行こう。
ばあちゃんに話をしてこよう。
たまには私の恨み節を聞いてちょうだいよ。
幼い頃ばあちゃんっ子だった私は、大人になってからばあちゃんの事を少し嫌いになってしまった。それはばあちゃんに拒絶されたと思ってしまった寂しさの裏返しなのだけれど。
ばあちゃんが死んでから10年以上経った今でも、ばあちゃんへのわだかまりは私の心の片隅に確実にある。
それがあってお墓に足が向かなかったのか。
ただ、めんどくさくて行かなかったのか。
信仰心の欠落の問題か。
多分、その全部だろうけど。
とにかく、今お墓参りに行こうと思った。
ばあちゃん用のお花とお線香と、自分用のタピオカミルクティーを買って、お墓に出かけた。
夕方のお墓参りって、ダメだったんだっけ。
邪気が集まるんだっけ。
そんな事が頭をよぎったけれど、夕方のお墓は意外と穏やかで居心地がよかった。
知らなかった。
お花ってただ持ってきただけじゃ、活けられないのね。
切りばさみも一緒に持って来ないと。
一人でお墓参りなんてした事が無いから、お墓まりの作法もままならない。
お水を撒いて、長すぎて今にも倒れそうな花を活けて、お線香をあげた。
何となく形にしたお参りでも、少しはばあちゃんと繋がれたような気がする。
思い浮かんだばあちゃんの顔は、こたつにあたって苦々しい顔をしたまま微動だにせずテレビを見ていた、あの時の顔だった。
元気だったばあちゃんとふたりで過ごした最後の姿。
お墓の横に腰掛けて、ばあちゃんに話をした。
そこにいるのかいないのか分からないばあちゃんに、私のモヤモヤの話した。
久しぶりに孫がお参りに来たと思ったら、グチ。弱気。泣き。
行き詰まった時にだけ訪ねてすまんねばあちゃん。
それよりもさ。
夕暮れ時のお墓に一人、割と大きな声でブツクサ言っている女がいるって。
ヤバイよね。
コワイよね。
こうして午後のお墓には邪気が溜まっていくんだろうかね。
やっぱり夕方のお墓には近寄っちゃいけない。
それでも久しぶりにばあちゃんと話ができたような気がして嬉しかった。
八方塞がりのままではあるけれど、これでいて実は人生楽しんでるんだろうなって思ったら、わりかし元気になった。
うん、きっと声に出すのが大事なんだな。
夕方のお墓はひとけがないから、ブツブツとお話するにはもってこいだ。
ばあちゃんとの仲直りはまた今度という事で。
また、話しに来るね。