ショートショート『孤独のアロマ』
古びたガラス戸を開けると、そこには時が止まったような空間が広がっていた。
何十年もの足跡を物語る、懐かしい香りの洪水。壁という壁に染み付いた醤油と油の香りが、まるで店の歴史そのものを語りかけてくるようだ。
厨房からは中華鍋を振る音と共に、力強い香りが次々と立ち上っている。換気扇の下で踊るように舞い上がる湯気には、今日も変わらぬ日常の安心感が詰まっているような気がする。
やはり定番の醤油ラーメンは欠かせないな。
力強い醤油の香りがガツンと鼻腔に飛び込んでくる。ベースは豚骨と鶏ガラか。旨味がたっぷり溶け込んだスープの奥深い香りが、絶妙なハーモニーを生み出している。
使い込まれた中華鍋から生み出された、こがしニンニクの芳ばしい香り。きざみ生姜のスパイシーな風味、そして、青臭ささえ感じさせるネギの若々しさ。すべてがいいアクセントになっている。
茹で上がったばかりの小麦麺の甘い香りもたまらない。これぞ町中華の王道、魂の一杯だ。
ラーメンとお供といえば、餃子は外せないだろう。
小麦粉の皮が焼かれる香ばしさ。豚肉の脂が溶け出す甘い香り。その向こうからキャベツの甘みと白菜の優しい香りが顔を出し、最後はごま油の芳醇な香りが鼻腔を満たしていく。
ニラと生姜が織りなす大地の力強さを感じさせる芳香も、私の理性を揺さぶる。
タレは醤油と酢、それにラー油。三つの香りが絡み合うことで、肉汁の香りを引き立てる伏線となっている。
最近流行りの酢コショウだって悪くない。酢の清涼感と粗挽き黒胡椒の鋭さとのマリアージュ。これもまたいい。
この店は麻婆豆腐が特に人気らしい。
四川料理特有の花椒の痺れるような香り。豆板醤の朱い誘惑にニンニクや生姜の香りとが絡み合い、まるでシンフォニーを奏でているかのようだ。
強火で炒められた豚ひき肉から立ち上る力強い香りだって負けていない。そこに深い旨味と辛みの香りが重なることで、否が応でも食欲が刺激する。
豆腐からは大豆の優しい香りが漂い、やさしく鼻腔をなぞる。激しい香りのせめぎ合いの中でも泰然自若とした安定感は、ある種の風格すら感じさせる。豆腐は主役になれないなどとは、決して言わせない。
このケチャップと卵の組み合わせは天津飯か? いや、この店は関西風の甘酢だれの天津飯だったはずだ。
……なるほど、オムライスか。町中華の隠れた人気メニューが、真打としてやってきたわけだ。
新鮮な卵のやわらかな香りとケチャップの酸味のある香り。どこか遠い記憶を呼び起こしてくれるような懐かしさと安心感が、私の全身を包み込んでくれる。
パセリの清々しい香りは、さりげなくも力強く存在感を主張している。森の中の小さな清流のように。
中のライスは、定番のチキンライスではないようだ。
そうか、チャーハンか。チャーハンオムライス。そういうのもあるのか。
何十年も変わらぬ町中華の香りは、庶民の幸せを凝縮している。
私は今日も、この香りの洪水に身を委ねる。それは都会の片隅で見つけた、小さな贅沢時間。
時間や社会に囚われず、ただひたすらに香りを堪能する至福のひととき。
この瞬間だけ、私は自由になれるのだ。
「お客さん、注文は?」
――あ、水だけでいいです。金欠なので。
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