道徳世界での「不倫」とは 経済学論考 9
前回までの経済学論考では、倫理と道徳を分割整理してみました。
倫理は「神の理」なので、本来「完璧」なはずが、そこに不完全な人間の意識が混ざることで、「動きのある倫理」、「倫理の道徳化」が起こります。
一方で、
道徳は不完全な人間の意識から発生し、その「動きのある道徳」から「完璧性」を見出そうとして「道徳の倫理化」が起こる、というお話をしました。
特に西洋は一神教的倫理がベースにあり、東洋は道徳がベースにあるわけですが、東洋の日本は倫理よりも道徳の方が強い国柄、民族性を持つ国家・社会となります。
そんな中で「不倫」という言葉がありますが、これはどういう意味かを考えてみます。
道徳世界において「倫理」は、道徳が最後に固定化し完璧になったとき、徳が極まり「倫」を示します。
「倫」とは「たぐい、人の道、円、環、仲間」を意味し、人をまとめ上げる君主であり、超越的内包母神であり、達観しつつも個ではなく集団の中にあることを求める社会の緩やかな「連帯の円の中心軸」でもあります。
誤解を恐れなければ、これは「緩やかな群れ・緩やかな全体主義・緩やかなファシズム」の意識であり、明治政府に作られた「社会」という言葉より以前にあった「社稷(しゃしょく)」がこれに当たります。
「社稷」とは土地神を祭ること、穀物の神を祭ることであり、ひいてはその土地を切り開いた先祖、そこで育まれた食物を食べて育った子孫、その繋がりを齎した「無意識の信仰心の共有」(日本人の無神論:本当の無神論ではない)です。
道徳が極まり、倫が成立した完璧な社稷の中には、仁義礼智信の全てが満たされた血族、同族、仲間としての友好な人間関係が満載となり、より大きな群れへと発展していくことでしょう。
さて、ではその「倫」を否定する「不倫」とは何か?
それはその「社稷」「円環」「群れ」を「壊す異端者」というわけです。
円の中心軸をへし折り、
円内と円外を隔てる円周の線を破壊し、
道徳に満ちた内部を吐き出させ、
本来円に入れるべきではない不道徳な世界を内部へ呼び込み、
集団機能を破壊し、
子供たちの未来を破壊し、
社稷を破壊する存在です。
つまり、自民党や自称保守、左翼が実際行っているような行為も「不倫」です。
性的であろうと無かろうと、全てが不倫者です。
今、皆さんは、あっちの不倫者、こっちの不倫者と擁護していますね。
わざわざ「自分は不道徳な人間です」と卑下する必要はありません。
きちんと不倫者を軽蔑をしましょう。