短編小説/犬飼い②
朝、いつもは主人の方が先に起こしにくるはずの時間だが、それはなかった。ワタシは主人の部屋へ行き「主人…、主人、朝だぞ」と鼻をつけてみたが、びくともしない。……そういえば、さっきから生臭い臭いが立ち込めている。血の臭いだ。
主人の顔が、ない。
ワタシは、主人やワタシ自身に何が起きたのか、一瞬、思い出せなかった。……いや、これまでのことを考えると、思い出す必要もないのだろう。
辺りを見回す。ワタシは身体を身震いさせた。黄ばんだカーテンを開けると朝日が射してくる。古ぼけたタンスの上には、若い男女と、微かに見覚えのある小さな子供の写真立てが置いてある。だが、これまで主人の家には、知るかぎり人が訪ねてきたことはない。ワタシはソイツが見せた景色しか、まだ見たことはないのだから。
昨夜、いつものように、ソイツはワタシの頭を、数発殴った。“それ”をされるのが、当たり前に育ったので、この世界を疑うことはなかった。が、ワタシはそれをされると、何故だか身体が震えた。男は、口からイヤな臭いをプンプンさせると人格が変わる。助ける人間などいなかった。
私は、ワタシの残された本能がそうさせたのか、何故、今になって……かは分からない。気がついたら、ソイツの頭を噛み砕いていた。血のまざった肉の断片が、そこらじゅうに散らばっている。
ソイツの口からイヤな臭いがすると、眠りこけ、びくともしなくなる。昨夜、始めて私が暴れた後、何故かソレは抵抗しなかった。
私の首には、汗の醸し出す悪臭が染み込んでいる。勿論、風呂という贅沢なものに浸かったことは、殆どない。幼い頃から無理矢理つけられ、食い込んでいた首輪を、どうにかして木の柱に擦りとった。
終わったのだ、何もかも。
私は自ら、内側からかけられたドアの鍵をこじ開けて、住み慣れた小屋-家-をかけ出す。
澄んだ空気と太陽が、初めて心地よく感じられた。味わったことのない、不思議な感覚を……。
私は、自由だ。
END