見出し画像

気弱さん

初めて働いた場所は幼稚園でした。
ボロボロの園舎に水が滴る外の廊下。オモチャなんて限られた数しかなくて、子どもたちは遊ぶことよりも課外活動や鼓笛、そして英語学習のためだけに日々を送る。
そんな場所が、以前働いていた幼稚園だったのです。

今では人手不足がこんなにもニュースになっていて、保育士の不適切保育なんて言葉もあらゆるところで耳にします。
そしてワタシが働いていた場所は、まさに不適切保育に両足を突っ込んでいるような場所でした。

子どもたちの笑顔を見る余裕なんて、ありませんでした。
子どもたちの成長を一緒に喜ぶ余裕も、ありませんでした。

いつしか生きるために、そして毎日を無事に過ごすためだけの場所として、夢も希望も捨てて、働くことを選んでいたんだと思います。

もう何年も前のことだから、幼稚園で働いた記憶も少しずつ薄らいでます。
その中で、1人の先生と交わした言葉がいまだに忘れられずにいるんです。

気弱さん(ここでは仮にそう呼びます)は元々違う仕事をしていましたが、会社が倒産してしまうために園長が声をかけて、この園にやってきました。
おおらかで、優しくて、ちょっとだけ気弱なところがあり、特に1人の鬼のように怖い先生から目をつけられていました。
ただ気弱さんは、元々事務員で入ってきたのですが、人手不足と突然いなくなってしまう先生の穴埋めのために、保育に入ることもよくありました。

そしてある日、年長の担任をしていた先生が鬼にやられて、突然来なくなってしまったのです。
その代わりに入ったのが気弱さんでしたが、鬼は容赦なく気弱さんに当たり散らし、毎日のように何かにつけて怒鳴ることもありました。

誰が見ても気弱さんのせいではないことも、全て悪者にされて、時には指導という域を超えていじめのような形で気弱さんの人格を否定することもあったのです。

その姿を見かけるのは、いつも職員会議の時でした。
鬼が気弱さんが答えられないような質問を投げかけて、答えずにいると「本当にノロマですよね。気弱さんがいると仕事が進まないから本当にいい加減にしてほしい」と毎日のように言うんです。
けれどもその姿を直接見ても、助けることはできませんでした。
もしも口を挟めば、次は自分がターゲットになってしまう・・・。
その恐怖から、あの場で声を発することはできなかったのです。

毎日のように叱責をされる姿を見ていれば、誰だって心は痛み、そしてどうしようもないもどかしさの中でただ耐えることしかできなくなってしまう。
気弱さんの顔を見て、どんどん丸く小さくなっていく背中を見て、心が苦しくなっていく。それでも助けることは、当時のワタシにはできませんでした。

そんなある日、会議が終わった後に部屋でワタシと気弱さんだけになったことがありました。

ワタシは勇気を出して、気弱さんにこう尋ねることにしたんです。

「気弱さん。辛くないですか?こんなに毎日理由もなく怒鳴られるのなんて。あんなの、いじめと一緒じゃないですか!見ていて・・・苦しいです。もう、いっそのこと逃げてもいいじゃないですか・・・」と。

すると気弱さんは丸まった背中のまま床を見つめ、「僕には、守るべき家族がいます。もしかすると、以前勤めいた会社が倒産した時に路頭に迷うことになっていたかもしれません。ですが、それを救ってくれたのが、園長先生だったんです・・・。家族を、僕は守らなければなりません。だから、だから・・・」そう話す気弱さんの肩は、少しだけ揺れていたような気がします。

「納言先生も、理不尽なことを言われても耐えているのを僕は知っています。それでも毎日子どもたちと楽しそうに過ごしているのを見ると、僕も頑張ろうと思うんです。だから、心配しないでください。まだ、やれますから」

その言葉を聞き、ワタシは言葉を返すことができませんでした。
そしてそのまま、教室を後にしたのです。

気弱さんはその後も、どれだけ理不尽なことを言われても、どれだけ傷つけられても、辞めることはしませんでした。
その代わり、ワタシの方が先に限界に達してしまい、年長の担任だった先生と同様に、突然仕事に行けなくなってしまったのです。

それから数年後、新しく保育園で働き始めたワタシは、耳を疑う話を聞かされることになります。

あれ以降気弱さんは幼稚園で働き続けていましたが、系列の園に飛ばされて、やったこともない年少さんの学年主任を任されていたそうです。
緊張の糸がぷつりと切れてしまったのか、心がボキッと折れてしまったのか、そのまま過労で倒れ入院生活を余儀なくされたと、風の噂で聞くことになりました。

その話を最後に、気弱さんが今どうしているのか知ることはできなくなってしまいました。
退院したのか、それとも療養生活を余儀なくされているのか、それすらわかりません。

あの園には珍しいくらい優しくて、おおらかな人、それが気弱さんでした。
彼と一緒に仕事ができたことだけは、今でも大切な思い出となっています。
気弱さんに会うことは、もう一生ないと思います。
けれども、気弱さんの言葉に何度も助けられたワタシは、届くことのないこの場で、彼に言葉を伝えようと思います。

「気弱さん。辛い時に声をかけてくれてありがとうございました。絶望の淵でも優しくて温かいあなたの言葉に救われてきました。あの園で受けたこと、そして刻まれた傷が癒えることは難しいと思います。けれどもせめて、これからの人生は傷を忘れてしまうくらい、幸せで笑顔に溢れる日々になることを心から願っています。どうかお元気で」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?