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母とぱんつの猛反対

小学三年生の時、夏休みの宿題で生活作文というものがありました。
元々読書が苦手だったワタシは、生活作文か読書感想文のどちらかを書かなければならないという2択から「生活作文」を選び、先生の話もそっちのけでどんな内容を書こうかと考えていました。

家に帰る途中でも、「どんな話を書いたらいいかな」なんて考えながら道に転がっていた石ころを蹴って、道端にある謎の花を摘んで歩いていると、「そうだ!あれにしよう!!」と突然ひらめきの神様が舞い降りたみたいに、アイディアが浮かんで、石のことなんて、花のことなんて忘れて猛ダッシュで家へと向かったのです。

家に帰り机に向かって用紙を取り出し、最初につけたタイトルが「母はパンツの名付け親」でした。

もうこれは神回になる予感しかせず、むしろこの話を書けば賞も取れるのではないかと思うほど、謎の自信に満ち溢れていました。

私のお母さんは、少しだけ変わっています。
何でかわからないけど、パンツの畳み方をていねいに教えることに絶対の自信を持っていて、時には私のパンツに名前をつけることがありました。
パンツの後ろに英語でenjoyと書いてあるやつは、そのまま「エンジョイ」と名付けられ、butterflyと書いてるやつも、そのまま「バタフライ」と命名をされました。
文字が書いていないパンツに限っては、色のまま名前にして呼ぶこともありました。
その中で、洗い立てのパンツは「ピカピカパンツ」と呼び、一日中履いたパンツは「クサパンツ」とすごく簡単な名前をつけながら、私にパンツの畳み方を教えたり、「パンツアタック」というバレーボールみたいに丸めたパンツを私に向けてアタックすることもありました…。

覚えている限りでは、こんな感じでただただ母がパンツと戯れている話を書いていたような気がします。

一心不乱に何度もパンツと書いて、母の様子もなるべく事細かく書いていたので、提出枚数ギリギリまで書くことに必死になっていました。

ほぼ一筆書きみたいに書き上げた作文は、自分で読んでも「これは面白い!」と思う出来栄えになっていたので、もう早く両親の前で読みたくて仕方がなくて、今か今かと帰りを待ちこがれていました。

19時前に母が帰宅し、その30分後くらいに父も帰ってきました。

ご飯をみんなで食べた後、机の上の書きたてほやほやの作文を取りに行き、リビングでくつろいでいる両親にこう言いました。

「宿題で作文を書きました。これは素晴らしい出来なので、ぜひ聴いてください!」と。

両親は「どんなものを書いたの?」とワクワクした様子で、ワタシの朗読を今か今かと待ってくれました。

そして冒頭の「私のお母さんは少し変わっています」から始まるパンツの話に父は大喜び、時には手を叩きながら笑って聞いてくれました。
全てを読み終えて、「これは素晴らしい出来栄えでしょ?」と言わんばかりの表情を2人に向けると、父は「これはいい作文だぞ!賞が取れること間違いなしだな」と言いました。

一方母は「ちょっと待って。これを学校に持っていくの!?」と焦りだし、「これは絶対にだめ!書き直しなさい」とまさかの感想を述べたのです。
その瞬間、ワタシも父も、「えぇ!!!!!!!なんでぇ!?」と言いましたが、母は真っ直ぐワタシの顔を見ながら「なんででも!いいから変えなさい」と言うだけでした。

ということで幻の『母はパンツの名付け親』というタイトルから、『一番がいいな』という弟が生まれてから寂しさを覚える少女の心情的な話を母の監修のもと完成させて、学校に提出したのです。

大人の手が加わったのだから、この『一番がいいな』は佳作という絶妙な賞をいただき、ひと夏の思い出が終わりを迎えました。

今でもこの話は家族の中でも話題になることがあるのですが、ワタシも父も「あのままパンツの話でいってれば」と悔しさを拭いきれていません。

あれだけパンツの話を却下していた母ですが、大人になった今でも実家に帰るとパンツの畳み方を丁寧に教えてきたり、パンツアタックを繰り出したりするので、「結局小学生の頃の母と何一つ変わっていないんだよなぁ」としみじみとしてしまうことがあります。

そして大人になったワタシは、生活作文の延長線みたいなエッセイを書くようになり、密かに「母のパンツの話はいつかどこかで書いて本にしてやる!」とリベンジに燃えています。笑

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