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あの夜、ずっと真新しいままのNew Balanceのスニーカーを見て思ったこと
彼が歩けますように
丁寧に文字を書いた。
息子が2歳の誕生日を迎える頃、とある神社で手渡された絵馬。
「願い事を一つ書くとなんでも叶う」と言葉を添えられたそれに何を書くか、一晩悩んだ。
絵馬はひんやりとしていた。
子どもへの愛情なんて、いつどこで習うのだろう。
親になったらわかるものなのか、親になる前から知ってるものなのか、どんな形が正解なのか、どんな感情が当たり前なのか。
比較的若くして母親となったせいかもしれない。
恋愛以外の愛の形は、なんとなくあやふやで、確信の持てるものではなかった。
くっきりとした輪郭を感じられず、毎日描き続ける軌跡が重なるようで重ならない。
コンパスの針は、ゆらゆらと惑い、とまることはなかった。
手元から視線を上げると、澄んだ青が目に入った。
2年前、友人が「出産のお祝い」と贈ってくれた小さなニューバランスのスニーカー。
掌にのるほどのサイズはもう彼には小さすぎる。
飾り棚に置かれたまま、結局一度も履かせることはなかった。
このさきもずっと、真新しいままのスニーカー。
ふつふつと目からこぼれ落ち、ペンを持つ手を濡らした。
ぬるい涙が、何かを溶かしていく。
歩かない。
彼は歩かない。
知っていた、彼が歩かないことを。
あの靴を履いて歩く日が来ないことを本当は知っていた。
手が動く。
さっき書いたばかりの文字は黒く塗り潰され、新しい文字が次々と流れ込む。
「彼が自分を信じて生きてゆけますように」
「彼が沢山の笑顔に出会えますように」
「彼が人を愛し、人に愛されますように」
「彼が自分の夢を見つけられますように」
「彼の人生が光輝きますように」
手は動きつづけた。
心は凪いていた。
視界が文字で満たされたことに気づき、そっとペンを置いた。
深いところから押し出される、細く長い息。
乾ききらないインクを避け、そっと端っこをつまみあげる。
神様にこの上なく申し訳ない持ち方。
指先に少し力を入れると、じんわり安堵に包まれていくのを感じた。
たくさんの願い事で埋め尽くされた絵馬。
叶うのは1つだけだったはずなのに。
たくさん、こんなにもたくさん、私の中に、彼への想いがあった。
私の中には、ちゃんとあった。
彼への愛情が。
母としての愛情が。
そして。
彼が歩けるようにと願うことを金輪際やめる。
そう、自分と約束した。
彼もきっといつかは歩く。
絶対的な、そして絶望的な希望を手放せずにいた。
歩けなければ、前に進めないのだと思っていた。
歩けなければ、何もはじまらないのだと。
歩けない彼には、
そして歩かせてあげられない私には、
先の光が見えないのだと。
そう思っていたから。
「私は彼のことを愛している」
少し遠回りしたけれど、彼が生まれて2年。
あの夜、やっと親として彼を愛する1歩目を踏み出せたような、気がした。
今月、彼は21歳になる。
そして私も母親21年生になる。