車椅子ユーザー・脳性麻痺の息子が一人旅をしたいと言い出したので送り出した一部始終
我が家の脳性麻痺オシャンティー息子は2年前(18歳)、人生きっての勝負に出た。
大阪から京都まで、介助者なしの一人旅に出かけたのだ。
話す事もままならない。車椅子の自操なんてとんでもない。そんな彼が京都まで一人で行って、帰ってくるために出した答えは「行き先を紙に書いて、読んだ人に連れて行ってもらう!」という完全他力の方法だった。
しかし、さすがに本当の一人きりだと安全面での心配が残る。そこで、以前私の講演会でお会いした素敵な大学生、水口さんに相談。
「こんな企画うちの息子がやろうとしてるんですけど、遠くから見守りと、ちょっとビデオ撮影とかお願い出来る学生さん、いらっしゃいませんかね?」
すると「あ、それ僕やって良いですか?」という神的一言を頂き、秒で安全対策完了。
その後、ひょんなことからとあるTV局さんから撮影同行も入っていただけることになった。「この子、ほんともってるわ」としか言いようがない。
当日のルートはこうだ。
『阪神姫島駅出発→阪神梅田駅到着→徒歩→阪急梅田駅到着→阪急嵐山駅→竹林観光→ランチ→お土産購入→阪急嵐山駅→阪急梅田駅→徒歩→阪神梅田駅→姫島駅到着』
このルートを、首から下げたノートに「○○まで一緒に行きませんか?(しませんか?)」と1ページに1つずつ順に書いておく。
海外からの旅行客もいるだろう(そしてあわよくば頼りたい)と英訳もつけた。2ヶ国語対応、グローバル対応というやつだ、ありがとうGoogle翻訳。
また、車椅子の操作など未経験の方がほとんどだろうと、操作方法も明記。これで誰でも運転手だ。
夜になるかもしれないので、暗くなったら自動で点くライトも胸元に装着。
多分これで行けるはず、準備に抜かりなし。
11月7日火曜日、当日。
「あー、楽しみやー」という彼は能天気なのか、なんなのか。出発地点「阪神本線 姫島駅」で同行してくださる水口さんと9:30合流。
そして私は彼と別れた。
自宅で在宅ワークの私は、ただ待つのみ。水口さんから初めて連絡が入ったのは彼と別れて1時間30分後の11時43分。「梅田まで来ています!」というメッセージと、女性に車椅子を押してもらっている彼の写真だった。
次の写真は、阪急電車に乗る彼の写真。「ずっとニヤついています。」というコメント付きだった。
次の写真は13:13。嵐山駅に着き、一人の女性と進む彼の写真。
旅の順調さにちょっと驚くと同時に、彼が少し緊張の面持ちなことからいろんなことを推測した。
13:35「畠山さんやばいです」という水口さんのメッセージにぎょっとしたのもつかの間。
「いい意味です」という言葉と、3人の方に車椅子を押していただいている写真が送られてきた。世の中、なんだかいい感じに回っているんだなあ…なんて気を抜きかけたその時、それはやってきた。
そう、誰も声をかけてくれない長い長い時間が。
「僕とお昼ご飯を食べませんか?」
彼が胸元に掲げている言葉は、14:00を迎えた嵐山の雑踏にぽつんとあった。幾人もの人が彼の前を通り過ぎてゆく。
15:00
彼は変わらずそこにいた。
16:00
「僕とお昼ご飯を食べませんか?」
その言葉は彼と共に、町へかき消されように見えた。
16:20
待つってこんなに長いんだ。今日はもう帰ってこられないかもしれない。
彼を思ったとき、喉元に苦い物がこみあげてくる。何を思っているんだろう。どう感じているんだろう。
でも、信じるって決めたんだ。 私はここでもう待つしかない。
覚悟したその時、水口さんからメッセージが届いた。
「知らない人同士が助け合ってくれています。さあ、ついに次のミッションです!」
女性5人が胸元の紙をめくり、話している。
「ランチはもう食べてんけど、ソフトクリーム食べる?」
「お土産買いに行こ!」
脱げた彼の靴も、みんなであーだこーだと履かせてくれている。私は心からほっとしたのだった。
18:22
帰りは、最後に出会った女性お二人と、最終ゴールの姫島駅まで帰ってきた。路線も違うのに一緒について来てくれた。
彼は、本当にいい顔をしていた。
そして、送ってきてくださった女性のお一人は泣いていた。
この旅は彼だけではなく、多くの人の心を動かしたのかもしれない。
お手伝いしてくださった方はもちろんだが、実際に行動には移せなかったけれど、何か感じたり、考えたりするきっかけになった方もいたかもしれない。
それはきっと、彼にしかできない事。
「一人で京都行きたいねん!」からはじまった冒険は、一人だけで終わらなかった。
出来ない事なんてどうでもいい。「何がしたいか」が大事やろ。
これが私と彼の合言葉。
こんなんしたら迷惑かな、はついつい先に頭に浮かぶ。だけど、迷惑かどうかは、相手に決めてもらってもいいんじゃないか、とも思う。
迷惑をかけるからやめるよりも、やると決めてから、じゃあどうしたら『迷惑』だとかを回避できるのか。
そんな順番で考えるのも悪くはない。
『子どもを守る』って何かが起きないように身体を守る事でも、「そっちじゃなくてこっちがいいよ」と道を用意しておくことじゃない。
『子どもを守る』ってことは、子どもの気持ちを守る事だと私は思う。
勇気を出したり、チャレンジしたり、一歩前に踏み出そうとするその心を。踏み出した結果、折れそうになったり、自分をほめたいと思っているその心を。
そんな子ども達の心を守る。それが私流の『守る』だ。
みんなと一緒に写真を撮る彼の横顔は、自分をちゃんと生きてゆこうとしているように見えた。
親なんて結局、「信じて待つ」ことしかできないのかもしれない。
それにしても、信じるって疲れるなあ・・・。
そんなことをしみじみおもった、長い長い秋の日。見上げた空は、とても綺麗な月が輝いていた。