「愛は惜しみなく奪うものかもしれない」(2020/07/09 )
タイトルの文章は、高校1年生の時の漢字練習帳に載っていた言葉だ。私の人生はこの言葉に、そしてこの言葉から派生した出来事とそこで生まれた言葉に固執するかたちでできている。
出来事について結論だけいうと1人の友達と絶交状態になった。まあツイッターは相互フォローだし(相手のツイートも見られるのでブロックはされてない、はず)今どき珍しく電話番号も交換していたので完全に絶交とは言いきれないのだが、出来事以降交友はない。私は友達が少なくしかもその人は、もし関係が続いていたら、今でも一年に一回くらいは連絡を取っていたであろう人だから当時の私にとってショックであったし、今も記憶に残っている。
関係が絶たれる直前、その人から「愛は惜しみなく奪うものというよりかは押し付けるものだと思う」とLINEで言われた。長文で送られてきてその記憶を抹消するため消した(その行為によって強く覚えている可能性もある)ため、一言一句をおぼえてるわけではないが、「お前は人に愛されたいと言ってばかりで人を愛せ」とも。私は所詮高校生というまだ世界がわからない人格が考えた太文字の考えに納得したくなく、ずぶずぶに否定するために生きている。いや、世界を知らないからこそ言えるのかもしれないが。とりあえずこれについての現時点での考えを記しておきたい。
まず第一に、これに対する反論はまだない。4年も経ったがむしろ納得してきた気すらしている。ただ、奪うにしろ押しつけるにしろ、それが恐ろしい行為だということはなんとなく思うようになった。
この人はプレゼントをするという行為を、お金、ひいてはそのお金を得るための自分の時間を相手に押しつけているのだと言った。なるほど一理あるかもしれない。けれどそう考えていくと愛という言葉で表せる行為は全てのものが「自分の時間を押しつける」という行為に行き着くのではないだろうか。(時にはそれにより、相手から何かを奪うことになるのかもしれない。)例えば、約束してデートをする、一緒にご飯を食べる、遠距離で電話をする、突然会いに行く…今ぱっと思いついたのはこれくらいだが、なにか反例があれば教えて欲しいくらいには全ては時間をおしつけている。
愛が押しつける、時間を押しつけることだとすると愛の深さは時間の量で測ることが出来るのだろうか?それはなんか嫌な世界だな。でも、5年くらい付き合って別れたいけど別れないカップル(もはや情で付き合っている人?)とかを見ると結局は愛=今まで押し付けた時間を惜しんでいるからのように感じる。
私がこれについて考えている時間も、もしかしたら愛になりうるのかもしれない、正確にはこれについて考えたことをあいつに伝えた瞬間は愛になるのかもしれない。起こりえないだろうが。いや、これを誰でもみれるように発信している時点であいつに対する愛になるのかもしれない。4年も経っているのに、自分が情けなくなるくらいには固執しているのだな。まあ、友情も一種の愛だと言うし、同じように憎悪も愛の一種なのかもしれない。
他者への没頭は、それが支援であれ妨害であれ、愛情であれ憎悪であれ、つまるところ自分からの逃避の一手段である。
エリック・ホッファー
この言葉を聞くと全て自分自身を構築することから、自分を愛することからの逃避なのかもしれない。
ところで、言われたことをもう一度考えてみると「人を愛せ」なら、もっと人に時間を使えということだったのだろうか。もしくはあいつ自体に。そう考えると「もっとかまって欲しかった」というのを小難しい言葉を並べて言ってきてただけなのかな。可愛いじゃん。これを言われた時、私はなにか反論した気がする。私は昔も今も結構自分のことよりも他人のことを優先しているみたいなこと。これは今でもそうしていると思っている。記録を消してしまったのが悔やまれる。まあ終わった事だし何を言っても仕方がないか。
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