第5話 メガネの秘密
首相暗殺予告まであと三日を数えるのみとなりました。
警視庁では現在、厳重な警戒体制を固め警備に当たっております。
本日は、暗殺専門家、高梨さんにお越しいただいております。
高梨さん、それで、今回の件ですが・・・
た、高梨さん?
[小声で鋭く]
(高梨さん!高梨さん!起きてくださいっ!
本番始まってますよ!
ちょっと!高梨さん!)
メガネが消えた次の日の朝、アソウとミハダは真剣な表情で向かい合っていた。二人には騒々しいテレビの音さえ耳に入らないようだった。
「そんな殺生な、ミハダくん!今のはあかんでぇ。」
「また『待った』ですか?」
「いや、そこまで言うてへんがな。ただな。いや、ワシも別に五百円が惜しいわけやないで。ただ、朝から負けるって気持ち悪いやんか、な?ちょっと今の手は『無し』という手でどや?」
「『待った』ですね?」
「もう、ミハダ君ったらぁ、かなわんわぁ~!よっしゃ、分かった!じゃ、こないしょー。ワシの角!これ、やるわ。どうや?決して損はないでぇ~」
「駒の取引き、これで三度目です。将棋のルール変わっちゃってますけど。」
「ちぇっ。分かったわい。ほれ、五百円・・・上げたぁ~!」
そう言って五百円玉を持った手をアソウが上に上げきった瞬間、ミハダの手が消えた。そして同時にアソウの手からも五百円玉が消えていた。
残像さえ残さない、ミハダの恐るべきワザだった。
「・・・それにしてもあいつ、どこ行きさらしよったんじゃ。」
むしゃくしゃをぶつけたくなって初めてアソウはメガネが居ないことに気付いたらしかった。
「そういえば、あの子は一体誰なんですか?偶々出会った、とおっしゃってましたが、そうあちこちにあるような偶然とも思えませんね・・・。」
「さすが、ええ勘しとるのぉ、ミハダ君は。その通りや。ま、君には話しててもええやろ。あんな、アイツ、実はエッセンスはんの子供やねん。」
「!?・・・では、エッセンスという方は日本人だったのですか?」
「いや、イタリア人とフランス人のハーフで、生粋のアメリカ人や。でも大の日本好きでな。よく演歌聞いて泣いとったわ。」
「でも、メガネ君の顔は明らかにモンゴロイドですよね?」
「そうや。劣性遺伝っちゅうんか?あのひ弱そうな体、見てみぃ。ワシ、初めてあいつ見たとき泣きそうなったわ。」
いないとここまで言われるのだ。
「まさか支部長。・・・支部長が彼の父親・・・レイプは犯罪です。」
「何で和姦全否定やねん!ちゃうちゃう!エッセンスはんは日本人と結婚したんや。嫌なヤツでな。金持ちってことを鼻にかけさらしけつやがりおったヤツでな。慈善事業なんかに寄付したりすんねん!偽善者やねん!気持ち悪いねん!その上、ちょっと顔がエエからって紳士ヅラしやがってやな、エッセンスはんがドアの前に立つと一々ドア開けよんねん!じゃかぁしぃっちゅうねん、なぁ?」
哀れな嫉妬深い類人猿である。
「で、ワシ、一度だけその男に会ったんや。白黒つけよ、思うてな。これがまた腹立つほどええヤツなんや。ワシに無担保、無利子で一万円貸してくれるしやな・・・。」
猿以下の男だった。
「で、メガネ君は一体どうしてホームレスに?」
ミハダが話を元に戻した。
「そう、問題はそこや。あんな、エッセンスはんが結婚した日本人、尾道って言うヤツねんけど聞いたことあらへんか?」
「尾道・・・?えっ、・・・ま、まさか尾道財閥の尾道、ですか!」
ミハダの目に一瞬燃え上がった、見も知らぬ女性への嫉妬の炎にやはりアソウは気づかなかった。だからもてないのである。
「そのまさか、や。尾道は一時期メクロと、正確にはあいつの興した会社とやけど、親しく付き合うてたんや。でもな、あのメクロがただの付き合いなんてするわけないやろ?そのうちあいつ、エッセンスはんの屋敷に自由に出入りするようになったと思うたら、いきなりエッセンスはんのお茶に薬入れて手篭めにしようとしたんやで!ひどいヤツやろ?ひどいヤツやろ?」
アソウの顔が怒りで赤く膨れ上がり、普段の二倍の醜さになった。
なぜアソウがそこまでエッセンスの内部事情に通じていたのか、ミハダはアソウにその訳を訊かなかったし、知りたくもなかった。
「で、それ知った尾道が激怒してな・・・。ン?何で尾道がそのこと知ったかって?くっくっくっく。密告があったんやぁってぇ!くぅっくっく。まぁ、それ以来、尾道とメクロとは犬猿の仲になったんや。で、エッセンスはんが突然姿を消したんが、四年前のことや。」
またアソウの顔が膨らんだ。
「突然の失踪やのに、誰も騒ぎ立てん。どう考えてもおかしいやろ?ところがもっとおかしいのは、旦那とエッセンスはんの息子、メガネのことやな、この二人の態度や。二人ともエッセンスはんのこと忘れとるんやで!存在すら覚えてへんねんで?おかしいやん?そのうち尾道が公の場に出ることは少なくなってきてな。三年くらい前からぱったりと姿を見せんようになった。いや、生きてんのは生きてんねん。ただ、まるで魂が抜けたようになってもうててな。七十歳くらいやのに、外見も中身もまるで百歳くらいになってしもたんや。で、メガネや。あいつも記憶を失くしてる点は尾道と一緒や。でも、尾道は実際より老けて見えるようになったんやが、メガネの場合は実際より若く見えるようになってんねん。なぁ、ミハダ君。メガネの本当の歳、ほんまのところ幾つやと思う?」
アソウが聞いた。
「今までの話から言うと・・・」
「うん。」
「まさか、・・・二歳とか?」
「どんな計算で二歳やねん!喋られへんやん!ヨチヨチやん!話きいてないやん!」
「そうですわね。」
「そこ認めたら、ワシ、しゃべる気失せねんけど・・・。あいつ、今年、二十五や。見た目はせいぜい十五くらいにしか見えへんけど、あいつホンマは二十五なんやで。」
「私と一緒じゃないですか!・・・ほとんど。」
「ちゃんと、『ほとんど』って付けよったな・・・。ま、この二人に一体何が起こったのかは謎や。でもこの件にメクロが絡んでおることは間違いあらへん。」
「でも、母親のことを忘れるなんて・・・」
「そうや。エッセンスはんがそのこと知ったら、泣くでぇ。でも、ワシ、エッセンスはんはもうこの世にはおらへんと覚悟しとるんや。」
アソウはそう言うと、机の上に乗っていた最後のお煎餅に手を伸ばした。
アソウの手が最後のお煎餅に届く数舜前、ミハダの手が消え、煎餅に伸ばしたアソウの手は虚しく空を切った。
ミハダがパキリと煎餅を頬張った。
乾いたその音が室内に響いた。