第二話 病室

 おばあちゃんの入院一週間目に、簡易ベッドが病室に届いた。

 毎日家と病院を往復するのは大変だろうからと、お母さんが買ってきてくれたものだ。その夜から僕は病院に寝泊りするようになった。夜中に二度は必ずトイレに行くおばあちゃんに付き添いができたので看護士さんたちはけっこう喜んでいた。

 僕がおばあちゃん家に帰るのはおばあちゃんの荷物を持って帰るときと、自分の一日分のご飯を作るときだけだ。だから一日一回は必ずおばあちゃん家に帰るけど、三時間もそこにはいない。ようやく夏休みの明けた道場に通うときでさえ、僕は病院から通った。

 病院生活は静かで良い。夜中に僕を起こすことに気兼ねしたおばあちゃんが時々、自力で立ち上がろうとしてテーブルをひっくり返したり、花瓶を割ったり、僕の上に倒れこんできたりして大騒ぎを起こすけど、それさえなければ病院生活は単調で快適だった。

 お昼の二時頃の病室は特に静かで、病室ごとポコンッと世界から切り取られてしまったようになる。聞こえるのは病室の前を時々通りかかる看護士さんたちの忙しそうなスリッパの音、そして、そのガタイから想像されるよりはずっと静かな波田さんのいびき、それだけ。

 そんな静まり返った世界で僕は、じっと床を見つめていた。床にはたくさんのヒビがあって、そのうちの一番大きな黒いやつをずっと見つめていると、吸い込まれそうな気がしてくる。何かが這い出してきそうな気がしてくる。

 床からふと顔を上げると、向かいの小出さんのカーテンが風に揺れていた。今日も小出さんには来客が来ていて、カーテンを閉め切っている。でも、何の物音も聞こえてこないから気持ち悪い。

 朝の小出さんは目元のぱっちりした美しい人で、周りを華やかにさせるオーラを持っている。だから朝の病室は明るい。

 朝の小出さんににっこり微笑まれたらきっと、その日一日なんだか幸せな気持ちになれる、と思う。僕は小出さんに微笑まれたことはない。

 小出さんは入院しているというのに、ずいぶんと忙しかった。朝から夜までひっきりなしにお客さんが来ていた。だから、夜の小出さんはベッドの上でしぼんでしまっていた。見る影もない。きっとお客さんへの気苦労でぐったりと疲れてしまうんだろう。もったいない。

 小出さんを一番頻繁に訪ねて来るのは、真っ白な髪をかっちり後ろに固めたおじさんだ。暑いというのにいつもきちっとスーツを着ていた。小出さんのお父さんだと思う。

 小出さんと小出さんのお父さんは仲が良くて、二人で病室から出ていく→病室に帰ってくる→ベッドの上に座って話す・・・そのあいだずっと手をつなぎっぱなしだ。

 ご飯のとき、小出さんはきっと、お膳の中のおいしそうなものを、「はい、アーン」って言いながら、小さい子供にあげるみたいにしてお父さんにあげる。小出さんのお父さんがまたそれを、子供のようにして口で受ける。病人は小出さんで、病院食においしいものはなにもない。見ている方が恥ずかしくなる。

 でもまあ、それくらい二人は仲が良かった。

 来るたびに高そうなお菓子や果物をどっさり持ってきて、みんなに配ってくれる小出さんのお父さんが来るのは病室のみんなに大歓迎された。

 もちろん僕もチョコやケーキは嬉しかった。でも、僕が小出さんのお父さんの来るのを楽しみにしていたのはそれだけではない、もう一つ別な理由があった。

 小出さんのお父さんは時々、みんなに知られないように僕にだけお小遣いをくれた。小出さんのスパイをすることで五百円。スパイといっても、その中身はいつも決まっていて、小出さんを訪ねてくるお客さん達のことを小出さんのお父さんに話すだけ。それだけで五百円。

 もちろん、最初に小出さんのお父さんに五百円渡されたとき、僕は断った。でも、小出さんのお父さんはニコニコしながら、「いいから取っとき。そん代わり、これは誰にも内緒だよ」と僕の手に五百円玉をぐっと押し付けてきた。

 考えてみれば、小出さんのお父さんはお金持ちだ。(・・・たぶん、小出さんのお父さんにとっての五百円というのは、僕にとっての一円みたいなものなんだと思う。それに小出さんから「ダメ」と言われたわけでもないし・・・)そう考えると、人からお金をもらうやましさは結構おさまった。そう、要は、これは仕事だ。

 僕はその五百円玉をポケットに入れた。

 小出さんのお父さんは週に二回来た。そのたび僕は呼び出された。五百円ももらって毎回同じ話をしていては申し訳ない。僕は小出さんの来客にこれまで以上の注意を払って観察した。

 小出さんを訪ねてくるのは小出さんのお父さんを除いて八人いた。怖い顔をしたおじさんもいれば、大人しそうな人もいたし、年寄りもいれば若い人もいた。女の人は一人もいなくて、みんな男の人ばかりだった。

 小出さんはお客さんが来るたびにカーテンを閉めてしまうので、小出さんがお客さんとどんな話をしているのかはまったく分からない。ただ時々、小出さんの小さな笑い声が少し聞こえるだけだ。

 八人が重なって来ることはなかった。みんな別々の時間に来た。どの人も決まって一時間居てから、帰る。三時間も居座っているのは小出さんのお父さんだけだ。で、一人帰って一時間くらいすると、また一人、という具合にお客さんは来た。だから小出さんは、一日に最低四人のお客さんと会っていた。

 一度、「あの人たちみんな小出さんの兄弟かな?」とおばあちゃんに聞いてみたことがある。(その頃にはおばあちゃんもだいぶよくなっていた。舌を動かさない変な話し方と、時々僕の名前を忘れたり、トイレに行くことを忘れたりはしたけど)おばあちゃんは首をひねって、「さぁ・・・、どうだろうねぇ」と言っていた。

 でも、残念ながら僕のこのアルバイトは三週間で終了となった。

 ある日の夕方、僕が道場から帰ってきたら小出さんはもう居なかった。

 小出さんの居た場所は、まるでこれまで誰も居なかったようにガランとしていて、ベッドも、ベッドの横の壁も、真っ白で、ピカピカ光っていた。

 小出さんがいなくなると、病室は急に広くなった。僕は寂しく思ってたけど、波田さんはなぜか嬉しそうだった。

 向かいにいる増田さんに向かって小出さんのことを何度も、「夜の女」と呼んではニヤニヤ笑っていた。普段の波田さんは、気のいいおっさんのようで僕は好きだけど、ニヤニヤ笑いながら小出さんの噂をする波田さんはどうしても好きになれなかった。

 おっさん(波田さん)の向かいのベッドに入院している増田さんは、波田さんの話を聞いても静かに笑うだけだ。

 増田さんは笑うと両頬に小さな、でもはっきりとしたえくぼができる。白い髪が頭の半分くらいに混じっていて、そのせいで普段の増田さんは僕のお母さんよりもずっと年上に見える。だけどにっこり笑った増田さんは五歳くらいの女の子のようにも見えるから不思議だ。

 増田さんは自分からは話さない。いつものんびりと窓の外を見て暮らしている。話し方ものんびりしてて、なんだか寝ている人が話をしてるみたいだ。

 増田さんには、毎日夕方の五時ぴったりにお見舞いに来る旦那さんがいた。時間にきっちりした人で、病室に入ってくるのが五時から一分もずれない。

 増田さんの旦那さんは背が低く、百五十二センチの僕とあまりかわらない。僕と違うのは足の長さで、旦那さんの足は腿の付け根からすぐふくらはぎがはじまって、すぐにかかとがくる。足の長さは体全体の三分の一くらいだ。それでいて旦那さんは早足なので、その短い足を猛烈に動かしてタカタカタカタカ歩いてくる。だから旦那さんの足音は遠くからでもすぐ分かる。

 病室に来る見舞い客は(何度も病室に来ている人でも)病室に入った瞬間、まずは波田さんのジロジロ光線を受けてびくっとする。もし波田さんが目から熱光線を出すことができていたら、小出さんにお見舞いに来ていたお客さんたちは今頃みんな消されてるだろうな。

 だけど、増田さんの旦那さんだけは違った。旦那さんは波田さんの熱線にもビクともしない。

 旦那さんは病室に入ってくると一直線に増田さんのベッドに向かう。増田さんのベッドは病室の一番奥にあるから、旦那さんは病室に入ってから増田さんのベッドにたどり着くまでのかなりの時間、波田さんの視線を浴び続けることになる。それなのに旦那さんは決してたじろがない。まっすぐ床を見つめてまっすぐ増田さんのベッドに向かってまっすぐシャカシャカ歩く。そして、ベッドにたどり着いたときにはじめて、クルリと体を返してペコリとみんなに頭を下げる。

 頭を下げ終わった旦那さんは次に、増田さんのベッドの下に横向けに寝かせてある、旦那さん専用の折りたたみ椅子を取り出す。その椅子を取り出すときには、いつも、何か小声で増田さんに言っている。そうして椅子をいつもの位置にセットした旦那さんは、背広の上着を脱ぐと、バサバサと二回振って、椅子の背もたれにそれを掛ける。掛けながら自分も座る。座ると鞄から新聞を取り出して、これもバサバサ言わせながら読み始める。読んでいる最中、「うん、うん」とうなずいて、頭を振っている。声は出さないで、頭だけ振ってる。

 旦那さんが新聞を読み終わる頃に、病院の夕食の時間になる。

 病室に夕食が運び込まれる、ちょうどニ、三分前に、旦那さんは新聞を読み終わってきれいにたたんで、鞄の中にしまう。そしてベッドの下に椅子を戻すと、病室のみんなにペコリと頭を下げてシャカシャカ出て行く。

 その最初から最後までがロボットみたいで、ほんとうにカッコイイ。

 僕はその旦那さんと一度だけ話をしたことがある。

 その日、トイレから帰ってきた僕は病室の入り口で旦那さんとあやうくぶつかりそうになった。なんとかよけた僕に向かって旦那さんが、「あ、すいません!」と、「給湯室はどこですか?」を、同時に言った。僕は確かにこの二つの言葉を同時に聞いた。一体どうしたらそういうことができるのかは分からない。

 とにかく旦那さんを給湯室まで連れて行き、僕は病室に帰ろうとした。その僕に向かって旦那さんが、「ありがとうございました」と、深く頭を下げていた。仏壇になった気分。見ていた看護士さんの二人が爆笑していた。

 急いで病室に帰って、おばあちゃんにそれを話した。横でそれを聞いていた波田さんが笑いながら、「ねぇ、増田さん。あんたんとこの旦那さん、家でもああなの?」と聞いた。増田さんは、「え?・・・」と言って、ちょっと考えていたけど、やがて、「あの人、あの服ばっかりですの。他にも服はありますのに、ねぇ?」と真顔で言った。

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