第八話 老婆
奥から聞こえる女の声が段々大きくなってきていた。
廊下の両側には、メガネとその仲間達の閉じ込められていた部屋の扉とまったく同じ扉がずらりと並んでいる。どの部屋にも人の気配はまったく感じられない。
よく見ると、各部屋の上部にはプレートが掲げられており、薄汚れて見にくいが、そこには確かに『洗浄室』や『器具室』などと書かれていた。ここは牢屋かと思っていたが、どうもそうではないらしい。
聞こえる・・・。
女の声だ。
ブツブツとひっきりなしに何か呟いている。
(ここだ・・・)その部屋は一番奥にあるため、光もあまり届いてはいなかった。
ドアを開けようとしたらここもやはり、メガネの閉じ込められていた部屋同様、鍵が掛かっている。取っ手を回しても開かない。低い女の声が、ドアから滲んでくるように聞こえていた。
メガネが細い針金を二本、ズボンのポケットから取り出した。
メガネを連行してきた、マカとかいう男の胸ポケットに差し込まれていたペンを失敬し、それから取り出したものだ。自分の部屋、そして田崎達のドアを開けたときに使ったのもこの二本だった。
メガネは床に片膝をつくと、針金を鍵穴に差し込んだ。『オー、イエー。アイムカミン。ユー、ファック・・・』知らないはずの英語もスラスラ口を割って出てくる。スパイ映画でよくあるシーンだ。
カチン・・・
小さな音が鍵穴でした。『オー、ビッグ、スモール、ユー、ミドル!』メガネは立ち上がるとドアノブをゆっくりと回した。
ドアが、かすかにキイキイいいながら開いた。
部屋の中は電気が切れているらしい。真っ暗だ。一体いつからこの暗さが続いているのだろうか・・・。
ドアを細目に開いて、多少なりとも廊下の明かりを入れるとまだ見当がつくほどにはなった。ようやく目も慣れ始め、メガネが恐る恐る部屋に足を踏み入れた時だった。
「エミ子さんかい!お夕食はまだかしらねぇ!」
すぐ右手から、巨大な大声がメガネの心臓を止めた。その瞬間、メガネの耳に、彼をやさしく天国に誘う、楽しそうなジングルベルの合唱が聞こえた、ような気がした。
心臓の止まったまま、メガネは音の出た方向に目を向けた。
そして・・・
(うわっ!)叫びそうになった自分をようやく抑えた。
いたっ!すぐそこに!
ボロボロの布が、かたまって置かれてるように見える。その塊の上に老婆の首が乗っている。
その老婆の首が、上向きで左右に細かく動いている。ネズミがクンクンあたりの様子を窺っているようなその老婆の動きがとても、怖い。
『お、お婆さん。俺、ちょっとあなたに聞きたいことあるんです・・・』
メガネが勇気を振り絞って小声で老婆に声を掛けた。
「え?何だね、エミ子さん!聞こえないよ!」
老婆が叫び、メガネが飛び上がった。
『しぃぃぃ!お婆さん、もっと静かに話してください!』
「あぁ、エミ子さん、疑ってるんだね!ホントにお腹ペコペコなんですよ!あぁ、たっちゃんが帰ってきたら言いつけますからね!ほんとに図々しいったらありゃしない!」
メガネの言うことなど一語たりとも聞いてない。
メガネは、自分の存在を老婆に知らせるためにすべきことを色々考えた。顔を近づける。肩を叩く。棒で突つく・・・。その中でメガネの選んだ方法は、彼女の手を自分の手で軽く叩く、というものだった。
彼はまた一歩、大人の階段をのぼったようだ。
「ん?あれ、あんた、は?」
ようやく老婆は、メガネがエミ子さんではないことに気づいたらしかった。
『おばあちゃん、僕は世界公務員のメガネって言います。偶然ここに連れてこられたんです。で、これからここを出て逃げるんですが、・・・一緒に来ませんか?』
メガネ自身が考えてもいなかった申し出だった。ここでホントにこのババアに、連れてってくれ、と言われたらどうするのだ?
「あぁ、たーちゃん!」
『は?』
それはメガネの本名に偶然合ってはいたが、いかんせん、メガネは自分の本名を知らない。
老婆は手を握っているのが息子の『たーちゃん』だと知ると、まるで津波のように話しかけてきた。
「あぁ、たーちゃん!ちょっとお聞き!あのね、エミ子さんがまたお夕食をくれないんだよ!まったくあの子ったらホント気が利かないっていうか、図々しいっていうか、さ。もうっ!たーちゃんは男の子なんだからちゃんと言わなきゃだめじゃないの!ううん、口だけだとやっぱり駄目ね。女は張っ倒して言うこと聞かせなきゃ!」
ババアはもう彼岸に住んでる。
『しょうがないな・・・』
時間がなかった。
首相が殺されても別段かまわないが、それを阻止しないことにはお金をもらえず、メガネにとってそのことは当然、このババアよりも遥かに重要なことだった。
『じゃ、おばあちゃん。ドアは開けておくから、適当に逃げてくださいね。』
部屋から出て行こうとして外したメガネの手を、突然、老婆がギュッと握ってきた。
一瞬、メガネの動きが止まり、そのメガネの手を老婆が優しく撫でた。記憶の奥底から何か暖かいものが湧いてくるような気がした・・・が、それはあくまでも一瞬の出来事であり、これからしなければならないことが山ほどあることを考えるとここで足を止めているわけにはいかない。メガネがその手を振り切って行こうとすると、老婆が思いがけなく優しい声で言った。
「たーちゃん、いいかい。顔はやめなよ。ボデーにしなよ、ボデーに。」
ババアの頭の中では、もう出来上がってる図があるようだ。
「ボデーだよ、ボデー!たーちゃんっ!ボデーーーーー!」
自分で言ってて次第に興奮してきた老婆の叫びを後に、メガネはその部屋を後にした。
廊下を、田崎達のところまで戻った。そして、彼らを促して三人で廊下を先へと進んだ。先程の老婆の手の感触が残っている。
気持ち悪いが、なぜか暖かい・・・
(第九話に続く)