第四話 サクラちゃん

 僕が初めてサクラちゃんに会ったのは、タクチカンが入ってきて二日目のことだった。
 大会も近くなり練習時間も次第に長くなってきたせいで、その日、僕が病室に帰ってきたのは夜の八時を少し過ぎていた。
 おばあちゃんはいびきをかいて寝ている。タクチカンと郁江さんはおそらく寝ているのだろう、カーテンが閉まっている。波田さんのとこも増田さんのとこも、どちらもカーテンが閉まっているけど、波田さんのところからは、着替えでもしているのか、カサカサ音がする。
 僕はなるべく音を立てないようにそぉっと椅子に腰掛けた。腰掛けた瞬間、ふぅ~っとため息が出た。こうやって休むと、体中の筋肉がパンパンに張ってるのがよく分かる。首も、腕も、お腹も、足も、体のあちこちがジンジン熱い。特に、浅田さんからきれいにもらった下段蹴りで右腿の付け根がビリビリする。それでも気分は良かった。大会向けの調整はかなりうまくいっているし、道場の中学生たちとも互角に組手できるようになってきている。師範からは最近、特に誉められる。
 そのとき突然、「信二君、おかえり!遅かったねぇ!これ食べん?」と言いながら、波田さんがカーテンの隙間からニョッキリ顔を出して、手を出した。波田さんの巨大な手の平に巨峰の入った皿が埋まっている。
 「あ、ありがとうござい、ます」僕は波田さんの声で潰されそうになった心臓と一緒に、急いでカーテンをまわって波田さんのベッドに向かった。
 波田さんはトドのようにベッドに横たわっていた。その波田さんのベッドの横に僕は、ちょこんと座って僕を見ている、・・・天使を見た。
「サクラ、信二君よ。お兄ちゃん達からも聞いてるでしょ?信二君はほんとぅにおばあちゃん思いでね、もぅっ・・・」
 ・・・生きてる、んだろうか?
 それは、ものすごくよく出来たお人形のような女の子だった。
 手も顔も、天井の光をほのかに反射するほど白い。その真っ白な顔の上に、細い筆先のような眉がある。眉の下には、大きくて、まっくろで、キラキラ輝いた瞳があって、それが僕に向けられている。鼻がスッとのびてて、その鼻の下には、真っ赤な、小さな唇があって・・・
 髪は軽く後ろに結ばれている。余った髪は、小さな貝殻のような両耳の後ろを通って、肩に落ちている。その髪の隙間から見える細い喉もまた真っ白で・・・
 ぱちっと僕の目が瞬きした。僕はハッとしてあわてて巨峰を見た。(大きな、おいしそうな巨峰・・・大きな、おいしそうな巨峰)
「・・・なのよ!すごいでしょ?ケイたちにも見習って欲しいわよ、ほんと・・・」
 波田さんが喋っている。僕は巨峰を口にした。まったく味がわからない。
「・・・でね、信二君。悪いんだけど、ちょっとお願いがあるのよ」
 波田さんの、全然悪そうじゃない声がした。
「信二君?」
「・・・あ、は、はい、何ですか?」
「これ食べてからでいいんだけどね、サクラと屋上まで行っておばさんの洗濯物取ってきて欲しいんよ。ちょっと重いからサクラだけだと無理なんよね。」
「大丈夫だって、私だけで!」
 〝チリン〟と鳴る風鈴のような、サクラちゃんの声だった。
「無理よぉ、あれは。看護士さんがようやく運べたくらいに重たいんやから。ね、信二君、お願いできる?」
「は、はい。僕は、何でもできます。」
 何を言っているのだ、僕は・・・
 波田さんが僕を見てニヤニヤしてる。僕はハッとした。波田さんは・・・、僕とサクラちゃんを結婚させようとしている!
 しかし・・・
 サクラちゃんの気持ちも考えてあげねば・・・。
「じゃ、サクラ、これんなか入れてきてね。」
 波田さんがベッドの脇に置いてある大きなプラスチックの籠を指差した。
「信二君、お願いね。」
 
 二人で病室を出た。僕はサクラちゃんの後になって歩いた。サクラちゃんはかなり早足だ。サクラちゃんが歩くたびに真っ黒いきれいな髪の束がサラリサラリと左右に揺れる。
 エレベーターの前で、サクラちゃんが籠を床に置いた。その拍子にティーシャツの袖口からサクラちゃんの真っ白な二の腕が一瞬見えた。僕はそこに、小さなホクロを二つ見つけた・・・。
 将来、・・・そう、これから十年くらい後だろうか?サクラちゃんと一緒に洗濯したり、料理したりする毎日が来るのだろうか。手をつないで散歩するのは仕事のない日曜日・・・、がやってくるのだろうか。
「ねぇ、これ、重いから持ってよ。」
 サクラちゃんが足で籠を蹴りながら言った。
「あ、うん。」
 サクラちゃんとの初めて会話だった。
 エレベーターがゆっくりと下りてきた。
 籠を持った。なるほど、けっこう重い。でも、空のプラスチックの籠が持てないほど重いわけはない。サクラちゃんはもしかして病弱なのかもしれない。二人で手をつないでする散歩は病院の庭なのかもしれない・・・。
「汗臭いわねぇ。」
 エレベーターの中でサクラちゃんが言った。
「そ、そうかな?」
 僕はあたりを嗅ぎまわるふりをした。
「あんたよ。」

 屋上は広かった。
 サクラちゃんが洗濯物を籠に入れている間、僕はまわりを見回した。フェンスで囲まれてなければいい夜景が見れただろう。星だけはよく見える。
 けっこう人がいて、いくつかあるベンチが全部埋まっている。男女の二人連れが何組か、暑いのに寄り添って座っている。あれは僕らの将来だ。隣に座って僕の肩に頭をあずけるサクラちゃん・・・。不治の病気で、もう長くないサクラちゃん・・・。胸が熱くな・・・
「なにしてんの。帰るわよ。これ持って。」
 巨体の波田さんの洗濯物で満杯の籠はおそろしく重かった。
 サクラちゃん、僕の順で病室に帰る。
「お帰り!信二君、ありがとね!」と波田さんが出迎えた。初デートが終了した。僕はがっかりし、ほっとした。
 ふと後ろを見ると、タクチカンのベッドのカーテンが開いてて、タクチカンがこっちを見ている。タクチカンは僕の視線に気付くとあわててサクラちゃんから視線を逸らし、ギョロリと僕を睨むように見ると露骨に目をそむけた。
「重かったでしょう?ごめんねぇ。」
 ねぎらってくれる波田さんの横でサクラちゃんが帰り支度をしている。
「じゃ、帰る。」
「気をつけて帰んのよ。」
 サクラちゃんが行ってしまった。小出さんが退院したときとは比べものにならないくらいに病室が暗くなった。
 胸の中にぽっかりと穴が空いた。
 とりあえず、おばあちゃんの横で夏休みの宿題だった算数の問題を片っ端から解いていった。

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