― 第一話 世界公務員メガネの誕生 ―

 公園に不思議な少年がいた。
 長い、艶気の消えた髪はぼさぼさで、いったい何日風呂に入っていないのか見当もつかない。黒く日焼けした肌が垢光りしている。
 髭のないつるりとした顎と、その無邪気な目が唯一、彼が少年だと告げており、案外、ちゃんとお風呂に入れ、きちんとした身なりをさせたら、いいトコのお坊ちゃんくらいには見えるかもしれない。
 しかし、それはあくまでも彼を一見したときの印象であって、よく彼を観察していると、彼からは、その、何というか、ミソ臭いというか、ジジ臭いというか、独特の老人的というか厭世的というか退廃的というか、な雰囲気がそこはかとなく漂ってくるのである。
 
 先ほどから、彼の前を通り過ぎていく人々は、一度は彼の前を無関心に通り過ぎていた。彼らは少年を通り過ぎた後、一様にふと思い出したように彼を振り返るのだった。なかには、わざわざ彼の前に戻ってきてまで確認する者もいた。
 彼らの目を引き付けたのは、彼のその年齢不詳な外見ではなく、彼がその体の前後に巨大な、ダンボールを改造して作った看板を背負っているからであった。そして、その看板には、『犯罪以外、何でもします』と下手な字で殴り書きされていた。
 わざわざ戻ってまでその看板を確認した者の中には、新手のジョークだと思い、笑いながら彼の顔を見た。しかし、彼の顔を見た者は困ったようにその視線を彼から外した。なぜなら、その看板男の顔 ―正確には右唇の少し上― には干からびた米粒がこびりついており、しかもそれが一粒ではなく何粒も固まり、それが排気ガスや埃のせいで黒く変色しているからであった。
 要はこの少年、本気なのである。
 彼は本気で、生活に困っており、本気で仕事を探しているのだった。
 生活に困る→仕事探し→体の前後に看板をつける、という発想に至った彼の心境に多少の疑問は残るとしても、まぁ良しとしよう。問題は、その看板の文句である。『犯罪以外、何でもします』としたのはなぜか?
 実はこの少年、前科者なのでは?
 いやいや、あるいは新手の勧誘商法か?
 ‟犯罪以外・・・と言って実は高価な壺を売りつける気なのでは?
 ・・・彼を、正確には彼の右唇を、見る人々の頭に浮かんだ暗い想像は広がりに広がり、乱れに乱れた。だからこそ人々は彼から視線を逸らせたのである。みんなの意見は当然一致している。

― 関わりたくない・・・ ―

 少年は当然ながら、自身と同化しているその米粒には気づいてはおらず、逆に、自分に目を向ける人々を面白そうに見ている。その彼の様子に人々は、(もしくは・・・)とさらに考えを深める。(春先によく出没する手合いの一人かもしれん)と。

 暖かな春の風が一筋、立ち尽くす看板少年のボサボサの髪をしきりにかき乱して、通り抜けていった。
 一体どれくらいの間、この看板少年はここにこうして立ち続けているのだろう?まるで英国宮殿に立つ衛兵のように身動きさえしないこの男に、一群のハトがその存在を忘れ、クルックル、クルックルと彼の周りでしきりに地面を啄ばんでいる。看板少年の目はついさっきから、メス鳩を追いまわすオス鳩の必死な様子に釘付けにされていた。

・・・とその時

「キャー、引ったくりぃー!」
 耳をつんざくような女の悲鳴が辺りに響き渡った。
 そのとき初めてこの看板少年の顔に人類らしい表情が浮かんだ。
(この声の主がもし、若い女の人だったら・・・)
 これがそのとき看板少年の考えていたことである。
 彼の脳内でドラマは進む・・・

 彼は馬に乗っていた。
 馬の色は純白である。
 先にあるお花畑の中に倒れている少女がいる。吹けば飛んでいってしまいそうな、可憐な少女。
 その右手に抱えた籠にはマッチが一杯入っている。
 彼はその少女の傍らに馬を止め、降り立つ。そしてやさしく少女を抱き上げて、馬上に乗せるのだ・・・

 (・・・ん?)ここで看板少年の空想は止まってしまった。
 (ちょっとまてよ・・・。少女を抱いたままで馬の上になんか乗れるのだろうか?俺でも持ち上げられるような少女といったら六歳くらいの・・・、いやいやいや!それは人間的にダメだろう。・・・そこはやっぱり十八歳くらいでなければ。で、馬上で俺はその少女を抱きかかえ、・・・あ、でも、馬上で横抱きされては少女も『落ちるかもしれん』と思って恐ろしかろう。では少女を座らせるとする。どこに?前?男の前に女を座らせるのはどうか・・・。その・・・、何かのはずみで蛇が起きてきちゃったりなんかすると・・・)看板少年の顔がそのとき、無意味に赤くなった。 
 (やっぱり乗せるなら後ろ、か・・・。で、全速力で馬を走らせる。夕日に向かって。・・・あ、でも、もし馬がすべって急停止するようなことがあったとしたらどうする?俺の後ろに座る少女の体の前面が俺の背に寄りかかってきたりなんかしたら・・・)看板少年の顔がまた無意味に赤くなった。

― ドタドタドタドタ! ―

 想像に酔う看板少年の耳に、人の走る音が届いた。前からだ。かなり近づいて来た、と思うと、看板少年の左手前にある藪の中からボンッと人が飛び出してきた。男だ。しかも、好んで一サイズ下のTシャツを選ぶようなマッチョマンだ。
 そのマッチョマン、藪から飛び出してきた勢いを落とさず、まっすぐに看板少年の方へ全力で走ってくる。目の前にいる変な看板を背負ったヒョロヒョロの少年など、マッチョマンの眼中には当然ながら映ってはいないだろう。指先を綺麗に伸ばして走るその姿は、まるでオリンピックの短距離選手のように美しい。そのマッチョマンの手に、金色のハンドバッグが握られている。
 (うわっ、金ピカだぁ。趣味悪いなぁ)持ち物を見るとその持ち主がどんな人間だか、大体わかるものだ。看板少年はそのマッキンキンのハンドバッグを見た瞬間、その持ち主が頭に浮かんだ↓
 パンチパーマ
 の女性。
 五十歳前後。
 肥満体。
 子供は二人。
 どちらかの子供の名前は『サトミ』あるいは『ミカ』。
 笑うと金歯が二つ。
 『何言ってんのよぉ~んっ』って言いながら相手の背中を叩く。
 文字通り『ガハハハ』と笑う。

 マッチョマンから遅れることコンマ二秒、悲鳴の主が姿を現した。
 彼女の姿を見た看板少年の心臓がドキッと高鳴った。

― マ、マッチ売りの少女ではないか・・・ ―

 とても生身の人間とは思えなかった。長く、真っ直ぐで、そして滴るような黒色の髪。寄せた眉に寄る形の良いシワ。満天の星空のように輝くその瞳には、受けたショックと悲しみからきた、看板少年は行ったことはないけど多分そうだろうと思われる沖縄の海のように透明な涙がその縁に揺れている。そして、彼女の走る様はまるで、天界をクルクルと飛び回るイタズラ好きな天女のよう・・・。もちろん天女も見たことはないが。しかし、(あぁ!俺のマッチはどうだい?アカズキン!)と、あやうく叫びそうになった自分を彼はなんとか押しとどめたのだった。

 一度決めると看板少年の行動は早かった。ズボンのベルトを外し、その手に握った。看板少年の握っている場所の反対の端にはいつの間にか輪っかまで出来ている。看板少年がそのベルトの輪っかを、彼の前を走り抜けようとしたマッチョマンの足に向って無造作に放り投げた。すると、その輪はマッチョマンの右足を綺麗に捕らえ、その瞬間、看板少年はバンドをくいっと軽く引っ張った。たったそれだけで全速力で走っていたマッチョマンのバランスが大きく失なわれ、彼は恐ろしい勢いで地面に倒れ込み、バコンッ!と派手な音をさせてその顔面をしたたか地面に打ちつけた。
 看板少年が無造作に、地面に転がっているマッチョマンに向かってヒョコヒョコと歩きだした。彼の一定の歩調には、マッチョマンに対する恐れや気後れが無い。気軽で自然な歩みだった。
 近づく看板少年の先で、顔面血まみれのマッチョマンが物凄い形相で立ち上がってきた。
「おめぇかぁ!」
 叫びながらマッチョマンの巨大な拳が看板少年の顔面に飛んできた。
 (あ、でもこれ、当たっとかないと正当防衛ならんのじゃなかったっけ・・・)そう思いつつも、看板少年が反射的にそれをよけようとした一瞬、「てっめぇ!ぶっ殺すぞ、こらぁ!」と、甲高い声が聞こえた。それは、あの可憐なマッチ売りの少女の、その形の良い唇からジョロジョロ出てきたものであった。一瞬、彼はマッチ売りの少女の顔を見た。彼の目に宿っていた深い悲しみを、彼女が気付いたろうか・・・。次の瞬間、マッチョマンのパンチはきれいに看板少年の顔面を捉え、彼はベンチまですっ飛んだ。
 もしそのときに偶然、そこを通りかかった二人の警官が割って入ってこなければ看板少年はきっと、ロマンチスト代表としてマッチ売りの少女の命を奪っていたことだろう・・・。
「こらっ!大人しくせんかっ!」
 警官達がマッチョマンの体を必死で押さえ込もうとしていた。その周りで、「おら、いけぇ!そこ、タマつぶせ、タマぁ!」とエキサイトし、髪振り乱して飛び跳ねているのは、しつこいようであるが、マッチ売りの少女である。
 マッチョマンがようやく観念し、二人の警官に押さえ付けられ、一件が落着したかと思われたときにはもう、そこに看板少年の姿は影も形もなかった。

 公園に静けさがもどってきていた。
 看板少年は置き去りにしていた看板を拾い上げると、そこからちょっと離れた広場までゆっくりと歩いて行った。さっきの騒ぎで集まってきていた連中がもう誰も残っていないことは確認済みだ。
 噴水の傍にあるベンチの横に看板を置き、彼はベンチに腰掛けた。パリパリの一万円が二枚、彼のポケットに入っていた。さっき、殴られた直後にマッチョマンのポケットから抜き取った財布から頂いたやつだ。このお金を見ていると、さっきのマッチ売りの少女から与えられた悲しみも多少薄らぐような気がする。
 
― さぁて!何を食べようか! ―

 じっくり考える必要があった。ラーメンも良かった。五百円のラーメンが四十杯も食べられるかと思うと、自分が世界で一番幸せ者だという気になる。牛丼もいい。豚丼もいい。コンビニのカップラーメンにオニギリの組み合わせも捨てがたい。なんならそれにポテチをつけてもいい・・・。
 満ち足りた気持ちで目をつむると、看板男は大きく伸びをしてベンチに横になった。どうやらそのまま眠り込むつもりらしかった。看板少年がうつらうつらし始めて十分も経った頃、彼は近づいてくる人間の気配を感じた。うっすらと目を開ける。
 近づいてきたのは男で、その男は看板少年の寝るベンチの正面に来て、立ち止まった。(公園の管理人かなぁ~?セチガライなぁ)心の中で舌打ちしながらも看板少年はとりあえず管理人から話しかけれるまでは知らんぷりするつもりでいた。
 陽を背にしているため、男の顔は見えない。シルエットから彼がずんぐりとした体形をしていることが分かった。
「起きとるんやろ?おい、さっきのあれ、すごかったな、君。」
 男が声をかけてきた。
「うぅ~ん!」
 看板少年が大きく伸びをし、目を開けた。あぁ、空が真っ青だ。

 ま、この男、公園の管理人ではなさそうだ。看板少年は安心するとまた目を瞑り、面倒臭そうな返事だけを返した。
「おじさん、誰?っていうか、あれを分かった方がすごいと思うんだけど・・・。ま、どっちでもいいや。ふぁ~あ。」
 看板少年は巨大な口を開けて思いっきりアクビをした。まったく緊張感の無い男だった。
「さっき、男からぱくっとった財布の件は見逃したる。ま、殴られた慰謝料ってとこやろな。でもそれとは別に、ちょっとお前に話があるんやけどな。」
 ずんぐり男が言った。看板少年はちょっと男を見やると、観念したように起き上がった。
「おじさん、刑事?」
「・・・うーん、ホントはちゃうねんけど、ま、どっちゃでもええわ。それはええとして、お前のあの体術。あれ、どこで習ろたんや?」
 男が聞いた。
「まぐれだよ。」
「まぐれでベルトが外れて、チェーンで繋がっとる財布が消えるかいな。まぁええ。おい、お前、腹減ってないか?なんか食うか?奢るで。」
 (・・・いい人だ)看板少年の中で男の点数がドンと上がった。
 看板少年は彼と一緒にラーメン屋へと向かった。ここぞとばかりにチャーシュー麺を注文しようとした看板少年の希望はあっさり却下され、結局は一番安い、素ラーメンになりはしたが、やはりタダ飯は旨い。ラーメンを啜りながら看板少年は彼と話した・・・、といっても看板少年には話すことなど何もない。なので、看板少年はただ男の質問に答えようと努力した、が、看板少年には、彼の質問に答えようがなかった。名前、出身地、年齢、血液型、スリーサイズ・・・彼は彼自身について何も分からない。自分のことを思い出そうとするのはまるで、簡単な文字をず~っと見ているとまるで見たことのない文字に見えてくるような、あの不思議な感覚に非常によく似ていた。よく分かってるような気がするけど、考えれば考えるほど分からなくなる。
 それでも以前はけっこう思い出そうと努力したこともあった。が、今ではもう自分の過去に対しての興味はあまりなかった。記憶より今日のラーメンの方が大切だ。記憶が無ければ無いで、結構楽しく生きられる。
 
 看板少年は素ラーメンを三杯食べた。
「質問に答えられなくてすいませんねぇ。」
 満腹の腹を抱え、ゲップしながら彼は言った。
「お前、それは謝る態度やないで・・・。そうや!お前、仕事探しとるんやろ?そしたらワシの仕事、ちょっと手伝ってくれへんか?」
 ずんぐり男が言った。
「はぁ、犯罪以外なら何でもやりますけど、おじさんは何の仕事してんですか?」
「うん、ワシはな、スパイや。」
「は?・・・スパイって、あのスパイですか?」
「そうや。あのスパイや。じぇーむす・ぼんどぉや、お前もやらへんか?」
「はぁ・・・。」
 胡散臭いオヤジだった。
 (ま、・・・)看板少年は思った。(どうでもいいかぁ)結局はいつもこの結論にたどり着くのだった。
「やります。お金くれるんならやります。」
「よっしゃ、決まりや!ついて来い。」
 男が立ち上がった。
「ワシは‟アソウや。一応言っとくが、本名やない。コードネームや。これからはアソウって呼んでや。『様』つけてもええで。」
 自分で言っといて、アソウが恥ずかしそうにちらりと看板少年の顔を見た。
「はい、アソウ様。」
「・・・つっこまんかい!ワシ、どんだけキングやねん!・・・ま、それはそうとお前は、・・・・・・・・・‟メガネや。」
「は?なんで?俺、かけてないですけど・・・」
「お前はなんか‟メガネやねん、オーラが。」
「俺、ほめられてるんでしょうか?」
「そうやぁ。しかもガラス製のメガネやでぇ!えぇなぁ、自分!」
 アソウが看板少年、改め、メガネの背中をドンッと叩いた。
「イタっ!」
 メガネが悲鳴を上げた。
 ヒョロヒョロとやせ細った体。ぼんやりとした目。(確かに‟メガネ臭いかな)メガネはふと思った。ま、どうでも良かったが。

 アソウに連れて行かれたのは、これまた胡散臭い一区画だった。ひしめき合って建つビル群の一つ一つに、サラ金やら雀荘やら英会話学校やらがガン細胞のように無秩序にひしめき合って増殖している。
 ビルとビルの合間をひょろひょろ歩いて行くアソウの後にメガネがついて行く。やがて二人は、周りのビルの中でも一段と派手に古く、そして汚いビルの前にたどり着いた。ちょっと壁に手をついたら倒れそう、のレベルではない、倒れる、そんなビルだった。
「ここや。」
 立ち止まりもせずアソウは呟くと、ビルの中へと入っていった。と、続いて入ろうとしたメガネはビルの入り口で突然立ち止まった。
「あ、そうだ。思い出した。そういえばさっきの公園に看板忘れて来ちゃいました。ちょっと取ってきます。」
 そう言うとメガネは建物に背を向けて、歩き出した。
「ちょ、ちょっと待たんかい!お前、ほんまマイペースなやっちゃなぁ。考えてみ?お前、仕事、見つかったやないか。えらいやないか、じぶん!頑張ったやないか、じぶん!だからもうあの看板は要らんのんや。」
「う~ん、そういえばそうだなぁ・・・。」
「そうや、そうや。ま、大船に乗った気でいたらよろし。」
 アソウはメガネの腕を掴むと、エレベーターまで引っ張ってきて階上のボタンを押した。
 必死の音をたててエレベーターが到着した。
「あの、一応言っときますけど、壺なら買いませんよ。」
 メガネが言った。
「誰が霊感商法やねん!それに、一体誰が口に米粒くっつけた『公園の人』から金取ろなんて思うねん!まぁ、とにかく黙ってついてらっしゃい!」
 メガネの勘違いもひどいが、アソウもひどい。『コジキ』なんて言ったりしちゃいけないのである。
 
 目指す部屋は三階にあった。そのビルの最上階である。一番奥の部屋、エレベーターからその部屋までに二部屋ある。しかし、どの部屋にも人は住んでないようだった。それぞれのドアは鉄製で、クリーム色(?)のペンキが極限まで剥げ落ちている。ドアの四隅がボロボロに錆びれ、なかば崩れかけている。一歩間違えば廃墟である。・・・ん?というか、廃墟なんじゃないか、ここは?とメガネは思う。
 奥の部屋のドアも先の二つの部屋同様、崩れそうなボロボロのドアだった。アソウがそのボロボロのドアを無造作に開けると、ズカズカと中に入っていった。どうやらいつも鍵は掛けてないようだった。続けて入ったメガネの頭上にペンキの破片が降ってきた。
 入る時、ドアの横に貼られていた表札にちらりと目を向けた。そこには汚い手書きで、

― 世界公務員 日本支部 ― 

 と書かれていた。その書体の『どうでもいい』感は、メガネの作った看板に匹敵した。
「おーい、ミハダ君。今、帰ったでぇ。」
 アソウが叫ぶと、奥から女が顔だけ出した。
 綺麗な卵形の顔。形の良い眉。しとやかに潤んでいる瞳。そして何よりも印象的だったのがその唇だった。適度に紅く、絶妙にふっくらとしたその唇。(あぁ!)言うまでもないがこれはメガネの心の悲鳴だ。(あぁ!)ニ度、メガネの恋心が疼いた。
「支部長、ニュース聞きました?」
 まるで、水晶のように澄んだ声だった。
 (こ、この人だ!この人こそ・・・アカズキン!)メガネにはこのミハダと呼ばれた女性の話す内容なんてどうでも良かった。その声だけが彼の胸を貫いた。(あぁ、なんという凛と鳴る声!)
「ま、さもしいとこだが入りぃな。」
 アソウは靴を脱ぐと、それを鼻に持っていき、ちょっと臭いを嗅いだ。癖らしい。気持ち悪い。アソウは自らの足裏の香に、おもむろに顔をしかめると、メガネを室内に招いた。
 招かれるまま、メガネは部屋の中に足を踏み入れた。スリッパも何もないので素足のままだ。玄関から奥の居間まで廊下が一本通じている。居間の、ガランとした空間には、ソファー(らしきもの)が一つ、ソファー(らしきもの)の向こうに汚れた机が一つ、そのさらに向こうに壊れかけた木の椅子が一つ、そして居間の右手奥の角に、積み重ねられた雑誌の上にポンと置かれた五インチくらいの、オシロスコープ然としたテレビが一つある。以上。それ以上の物はこの居間にはない。カレンダーもない。植物もない。ペン立てや本棚もない。居間の、一つしかない窓にはカーテンすら掛かってはいない。そのために、ヒビの入った窓から外が丸見える。

 ミハダが飲み物を持ってやって来た。
 (あぁ、僕のアリス!)メガネが心の中で三度叫んだ。アカズキンはどこかへ行ってしまったらしい。
「あぁ、いらん、いらん。こいつは客やない。これからは同僚や。」
 アソウがどっかりとソファに座り込みながら言った。
「あ、そうですか。」
 ミハダはそう言うと、飲み物を・・・持ったまま下がっていった。さすがのメガネもぽかんと彼女の後姿を見送るだけだった。
「まぁ、すわりぃ。」
 アソウに言われて、唯一の椅子にメガネは腰掛けた。
 台所、らしきところからミハダが手ぶらで戻ってきた。
 「あ、このね~ちゃん、ミハダ君な。美しいやろ?見てみい、肌!」とアソウがミハダを紹介した。
「支部長、セクハラで訴えますよ。」
 ミハダは淡々と言うと、メガネに顔を向けた。
「ミハダです。どうぞ宜しく。えぇ~っと・・・」
「あぁ、ミハダ君。こいつ、‟メガネや。おもろいやろ?」
「・・・メガネ君、ね。」
 (あぁ、もう名を呼ばれてしまった!)「は、はい!あまり好きな名前ではないんですけど、よ、宜しくお願い致しします!」
「若いもんが好き嫌い言うてどないすんねん!がははは!まぁ、『何でメガネやねん!』っちゅう点がミソや。それさえ言うてもらえたら後はもうなんもいらんがな、がはははは」
 名付け親が笑う。子供の名付けなんてそんなもんだ。そりゃあ親殺しも増える。
「で、ミハダ君。ニュースってなんや?」
「これです。」
 ミハダがオシロスコ・・・テレビをつけた。(つくんだ・・・)メガネはちょっと感心した。
 深刻な顔がよく似合うニュースキャスターが画面に現れた。

 ・・・きほどもお伝えしましたように、状況は非常に深刻なものとなっております。それでは首相官邸前から田代さん、宜しくお願いします。

 画面が変わ・・・らなかった。
 何かの不都合で画面はスタジオのままだ。深刻な顔だったニュースキャスターの顔から『深刻』が消えた。にたりと笑った彼は、手を頭の後ろに組み、椅子の背に体をのけぞらせて短い足を机の上に乗せた。素足の彼の水虫が、画面いっぱいに映った。そしてニュースキャスターは、そのリラックスした格好のまま、薄くなりつつある髪を愛おしそうになでながら画面右手を向いて言った。
「ゲンちゃん、やったじゃん!今日の夜の生放送はこれで無しだね!ということわぁ~、こーちゃん達とぉ、この前知り合ったあの娘達とぉ、ギロッポンでぇ、・・・へっへっへっへ。でしょ?まったくゲンちゃんもその年でよくやるわよ。私なんて、もう打ち止めよ。ひやっはっはっはっは!それで、首相が死んだ時用の特番枠はもう取ってあるんでしょ?ねぇ、どうやって殺されるか、賭けない?ははは・・・え?切り?いやぁ、今のご時世で刺殺はないっしょ、いくらなんでもさ。やっぱり遠くからカミソリみたいな目をした凄腕のスナイパーがさ・・・え?なに?切り替わってない?画面?あ・・・」
 画面がここで切り替わった。
 首相が画面に現れた。いつもの不敵な態度が全く消え去り、キョロキョロと落ち着きなく、鋭い視線を辺りに配っている。そして時折り、その引きつったような笑みが彼の顔に一瞬浮かんでは消えるのだった。

― えぇ~、日本国民の皆様。もうご存知のこととは思いますが、先ほど私、一つの予告を受けました。それは・・・(ここで首相は一呼吸置いた)私、日本国代表たる、この私へ!こ、殺しの予告です! ―

 悲しげなバックミュージックが鳴り出した。そして、いかにも『小悪党』といった顔のその首相は重々しく話し出した。

― 古今、わが国におきましてはぁ、米国などと違いましてぇ、え~、指導者が殺された歴史など、まぁったくございませんでしたぁっ!まぁったく!え~、だからこそ、私は事態をまったく遺憾なものと受け止め、決して個人的なことではなくぅっ!国家としてぇっ!え~、あってはならぬことである!とこのようにぃ、日本国民の代表として考えておる次第でございます!え~、これがぁ、例えば、私一人の問題でありますならばぁ、私は何も言いますまい。甘んじて倒れましょう、日本のために!しかし、BUT、いや、しかし、です!今回の件はぁ、平和を望む日本国民全てに対する、いや、全世界の市民に対するぅ、え~、挑戦なのであります!今回、私に対する・・・クラ、・・・クロ、(おいっ!これなんて読むんだ?『あん』?よし!)あんころしの予告ですが、ここに私は断固、宣言いたします!
 私は死にません!
 ご安心ください!
 私は絶対に死にません!
 一歩たりともここから出ません。食べ物はすべて毒見させるし、人にも、誰にも会いませんっ!
 ・・・くそっ!大体、好きで首相なんかやってんじゃねぇんだっ!みんな俺のことバカだって言いやがるしよぉ!漢字なんてあんなもん、読めねぇってんだよ!ぜんぶひらがなでいいじゃんよぉ!俺、小学生の時は超優等生だったんだぜ。靴下も自分で履かないくらいだったんだぜぇ。それが何だよ、遠藤のやつ。俺を担ぎ出すだけ担ぎ出したら党から出て行くしよー。・・・いや、辞めよーかなー、マジで・・・

 ブツッ。
 ミハダがテレビを消して淡々と言った。
「要約しますと、日本国首相が本日十五時未明、メガフォルテと名乗る団体より暗殺予告を受けました。そしてさきほど、本部より指令を受け取りました。読みます。」
 ミハダはポケットからトイレットペーパーの芯を取り出した。
「それはなんやねん?」
 ミハダが少し顔を赤らめた。
「その・・・、今度の指令はここに書かれておりまして・・・。私がさきほどトイレへ、・・・いえ、大の方ではないんです!誓って大ではありません!」
 メガネは黙っている。メガネは知っていた。ミハダがウンコなんてしない、ということを。
「そんなんどうでもええねん。はよ、読みぃや。」
アソウが無情にも言った。
「は、はい。えー、
 
 この前の余興は良かった。
 また楽しませるように。
 しかし、全裸になるのはさすがに・・・な?
 
 今度は日本が狙われる。
 首相暗殺がメガフォルテという名のテロリストによって予告されるだろう。
 それを阻止せよ。
 あと、『メルトモ』と呼ばれる凄腕が日本に上陸したらしい。
 彼がメガフォルテと結びついて、何やら企んでいるらしい。
 メルトモを捕まえろ!

追伸: 裸、寒くはなかったのかね?

 以上です。」
「ごはっ!」
 アソウが噴き出した。
「支部長、『裸』というのは一体何の暗号でしょうか?」
 ミハダが言った。
「知っとるくせに・・・。ま、まぁ、ということや、メガネ。君の初仕事決定や。どや?嬉しやろ、じぶん?ワクワクやろ?」
「は?」
 メガネがその細い目を見開いた。
「『は』も虫歯もあらへん!お前が捕まえて来るんやで。」
「誰をですか?」
「そりゃ、決まっとるがな。あの、ほりゃ、指令にあった・・・、えーと、なんちゅう名前やったかな?」
 アソウがミハダを見た。
「『メルトモ』です。」
「あ、そう、そう。そのメルトモっちゅうヤツや。そいつを見事、捕まえて来てみせぇぃっ!」
「はぁ。・・・で、幾らもらえるんですか?」
「がめついやっちゃのぉ。よっしゃ、五千円やろ。どや?」
「やります!」
 即答だった。メガネは計算した。(五千円=ラーメン十杯。ということは五日分。・・・あ、麺とスープを別々にすると二倍!)
「その意気や!」
「それで、どこ行けばそのメルトモとかいう人物に会えるんでしょうか?」
「指令の紙にこれがくっついてたわ。」
 ミハダが三センチ四方ほどの小さな紙をメガネに渡した。
 メガネが紙を広げると、紙の真ん中に小さな手書きの二文字があった。

― 新宿 ―

 ・・・。A四用紙の余白が目にしみた。

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