私の墓の前で泣かずにどこで泣くのか。
僕の母方の祖父は、僕が小学1年生の時に肺ガンで死んだ。
その時はまだ死というものをまるで理解しておらず、何があったかは正直あまり覚えていない。
ただ、母が父方の祖父の家に僕と妹を残して、病院へ看病に行っていたのは印象として頭に残っている。
電話が鳴った。
それは祖父の死を告げる電話だった。
父方の祖母が取り、内容を僕ら兄弟に伝えた。
そこで僕の記憶は消えているが、聞くと僕はひどく泣いて落ち込んでいたらしい。
告別の式。
正直子どもにとって葬式は退屈だ。
僕は従兄弟とずっと瓶ビールの王冠を集めていた記憶しかない。
式が終わり、いざ出棺。
車のクラクションが彼の生きた地に鈍く響く。
その後向かったのはもちろん火葬場
ではなかった。
僕の祖父は大阪府岸和田市春木本町でだんじりの制作当初から携わったり、曳航責任者を勤めたりした功労者だと聞いている。そんな彼に感謝を伝えるように、だんじり小屋の前で太鼓と金の音が別れを惜しむように高く鳴る。
子どもながらこの瞬間は圧巻だった。
1人の人間のためにこれだけの人が集まり、ましてやだんじりまで出すなんて。
地元で祭りをやってる僕からしたらこんなに栄誉あることはないだろうと感いるほどだ。
そして祖父の死から18年が経った。
今になって思う。
祖父と酒も交わしたかったし、麻雀で死ぬほど振り込みたかった。
ただそれは叶わない。
だってもう18年前に死んでるんだもん。
しかし僕は祖父の法事の際はなるべく帰るようにしている。
理由は単純。ただ祖父に会いたいだけだ。
昔「千の風に乗って」という曲が流行った。
『私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。』みたいな歌詞の歌だ。
だったら僕たちはどこで再開し、どこで泣けばいいというのだ。
普通に考えて死人が墓の中にいるわけがないなんてわかってる。
もはやこれはアニミズムにも似た概念と価値観の話だ。
僕は単純にその墓に行けば祖父の霊魂がいるのではないかと思ってる。
だから僕はよく墓参りに行く。
ここにいかなければ祖父と言葉を交わせない気がするからだ。
手を合わせ近況を報告する。
そこに返事はない。一方通行の会話だ。
正直ほとんど祖父との記憶はない。
ただ僕がたしかに祖父の孫であるという記録は刻まれている。
たしかに笑った顔は写真で見る祖父にどこか似ている。
僕のこのどうしようもないクセ毛も
祖父から母に。
母から僕に。
そうやって確実に受け継がれたきたものだ。
だから僕はこのクセ毛が好きだ。
おしゃれだからとかではない。
単純に祖父との繋がりを感じるからだ。
さて先に述べたように、祖父は盛大に見送られこの世を旅立った。
果たして自分はどうだろう。
そんな祖父を目標に僕は自分の道を歩んでいきたい。
もしかしたら「なんだそんな人生!」と祖父に叱られるくらいにしかならないかもだけど、まぁ自分の精いっぱいを頑張っていこう。
やればできるだろう。
だってあの祖父の孫なんだから。