メキシコ映画から学ぶ生き方
こんばんは。
雨なのか晴れなのかはっきりして欲しいお日柄してらっしゃいますね。今日も日中晴れてたから洗濯物を外に出したのに、帰ってきたら見事に雨に打たれてしまった。何事も中途半端は嫌われるからやめよう。
最近「パラドクス」という映画を見た。少し前のメキシコ映画であるが日本版のポスターが本編出全く関係ない、一部シーンがアニメ「チェーンソーマン」の元ネタになっているのではないかなどで一時期話題になっていたため、スリラー系映画を好む人であれば知っている人もいるかもしれない。
内容としては刑事ととある兄弟、代わって旅行前の家族という2つの場面が同時進行していく中で起こるSFタイムループホラーである。ここからは映画の内容へのネタバレ・考察を含むためご理解頂ける方のみ読み進めて欲しい。
初見はよくわからない映画だと思った。ループしている要因などはわかるが、爆発の根本的原因やそのメカニズムなど理論的なところは何一つ判明しないまま、見る者の想像力に任せたまま終わる。MBTIのTのひとが発狂しそうな演出だ。
しかし、映画が撮られるにはそれなりの「理由」がある。
そのことについて少し考えてみるとこの映画はただの薄っぺらいSFスリラーではないのではないかと思えてくる。
私はこの映画は「現実の不条理・格差への不満を他人で発散している人への警鐘」を表すためにとられたのではないかと考えている。
映画のループ舞台である階段や道路は通常であれば「だれかをどこかに運ぶ」ものとして利用されるものであるが、それらがループしているということは「長い世代や時間を超えて状況や境遇が変化しない」=「格差が変わらないこと」を表していると判断できる。また各所に登場するハムスターが回し車から出られないという状況もただのループではなく、「状況を打破できない虚しさ」を表していると考えて差し支えないだろう。
永遠の状況の中で登場人物たちは何もできずにただ日々を消化していく。しかし、そんな彼らでも自分が恵まれた立場になった次のループ先では目の前の「幸せ」に対して牙をむく。これは自身の体験への不満を他人にぶつけてしまい発散しようとする(SNS等における)現代人とも重なる。映画自体バットエンドのような雰囲気で終わることも考えると、制作陣はそのような人々に対して警鐘を鳴らしているのではないかと私は感じた。
「自身の体験への不満を他人にぶつけてしまい発散しようとする」人はかなりの人数いるだろう。いやほとんどの人がそうなのかもしれない。
人間は頑固な生き物で、うまくいかないことがあると自分に嫌気がさし、その自分よりも恵まれている人に嫉妬し攻撃する。これによる安心感や優越感がほかの活動に比べ多大なものであるから脳科学は不思議な世界だなと感じるが、果たしてその攻撃は意味があるのであろうか。そんなことしている時間があったらもっと自分の状況を変えようと考えた方が絶対に良い。
あなたが思っている以上にあなたはすでに「恵まれている」。だからそれに対して文句を垂れている暇があればとことん努力して、自分の理想に近付くのが一番である。うまくいかないことなど当たり前であるから、その時は周りを頼ればいい。周りの人をあなたの攻撃対象ではなく味方であると考えるのだ。
そう思った方が楽に生きれるのになと考える深夜1時半である。
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