アジア太平洋地域における核と安全保障
はじめに
アジア太平洋地域における安全保障は、核兵器の拡散や地域的な軍拡競争によって複雑化している。特に、中国、北朝鮮の通常・核戦力は、日本や韓国などの同盟国にとって深刻な脅威となっている。また先般の石破首相のハドソン研究所への寄稿には拡大抑止の信頼性についての言及があった。多くの専門家や国防・軍事に関心のある人々、他方、核をめぐる問題であるからこそ核廃絶派の団体からのリアションがあった。ここでは建設的な議論を国民間で行うための東アジアでの核をめぐる現状を伝えたいと考える。今回は特に大国間競争の視点から米中関係と日本を取り巻く環境についての検討を行いたい。それに関しては筆者の研究分野であることと、日本においておそらく最重要となるからである。また筆者の核への向き合い方は抑止を重視する立場であるため、人格攻撃に近い経験を受けたことがある。そうした人間の書いたものであることを前提に読んでいただくとありがたい。
1章 中国の核戦力の増強と近代化
中国の核戦力は過去数十年にわたり、質量ともに急速に成長している。中国は核抑止力を維持しつつ、アメリカやロシアと並ぶ核大国としての地位を確立しようとしている。核弾頭に関しては国防総省の昨年の年次報告によれば「2023年の時点で運用可能な核弾頭は少なくとも500発」、「2030年までに1000発以上」という分析がなされている(DoD,2023)。またICBM(大陸間弾道ミサイル)の近代化とSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)によって、対米抑止力の強化を図っていると見られる。戦略レベルの運搬手段のみならず、戦域核戦力の増強も計っていると見られ、こちらも日米の拡大抑止への影響は避けられないだろう。
(1) ICBM(大陸間弾道ミサイル)の近代化
中国のICBMは、米本土を直接狙う能力を持つ重要な抑止力として位置づけられている。特に、MIRV(多弾頭独立目標再突入体)技術を搭載することで、一度に複数の標的を攻撃できる能力を強化している。以下に中国の主要なICBMを示す。
DF-31AG:路上移動式の固体燃料ICBMで、生存率が高く、発射後の迅速な移動が可能。このミサイルは、移動式であるため、探知や打撃が難しく損害限定攻撃に耐える能力を持つとされる。こうした技術から米中間での偶発的/意図しないエスカレーションのリスクは下がるのではないかという分析もある(Wu Riqiang,2022)。また先日の太平洋方面へのICBMの発射はDF-31AGという分析が多い。
DF-41:MIRVを搭載可能な固体燃料ICBMで、米国本土を射程に収め、ミサイル防衛を突破する能力を有している。こうした視点から、中国は最小限抑止(minimum deterrence)」から「確証報復戦略(Assured retaliation」への移行にあるのではないかとされている(Cunningham & Fravel,2015)。将来的には対兵器攻撃にも対応可能であるとの分析もある(高橋,2019)。
(2) SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)・SSBM(戦略原潜)の近代化
中国は、海中からの発射能力を強化することで、核戦力の生存性を高めている。潜水艦発射の弾道ミサイルは、固定基地に依存しないため、敵の先制攻撃を受けにくい。
JL-3:射程約9,000 km以上のSLBMで、米国本土に到達可能な射程があるとされる。南シナ海や渤海から発射することで、敵の対潜水艦戦(ASW)によって核抑止力を失う可能性が減少する。
096型戦略原子力潜水艦:現在開発中の潜水艦で、対潜水艦戦(ASW)に対する耐性を高めたものとされる。これにより、潜水艦の生存率が上がると分析される。
(3)MRBM・IRBM(中距離・準中距離弾道ミサイル)
中国は、戦域レベルの抑止力として地上発射型のMRBM(中距離弾道ミサイル)およびIRBM(準中距離弾道ミサイル)を保有している。
DF-26:核・非核両用のMRBMで、射程は約4,000 km、グアムにも届くとされる。年々その数が増えてきている
DF-27:射程は5,000~8,000 kmとされ、HGV(極超音速滑空体)を搭載可能であるとの分析もある。これは、従来のミサイル防衛システムを突破する能力を持つとされている。理論上、米国本土にも届くものである。
(4) 戦略的安定性とエスカレーションリスク
このように中国の核戦力の伸びは相互抑止に米中が向かうことによって戦略レベルでの安定が地域での安定、また非戦略レベルでの不安定化をもたらすという「安定・不安定パラドックス」が生起しやすくなるという分析がなされる。そうした中で日米の拡大抑止の信頼性をいかに担保していくかは重要な課題であると考える。米中間の戦域における抑止については、戦域核戦力の非対称性が問題となっている。中国は先述したように陸上発射型の戦域核戦力を持つものの、米国は水中発射型のSLBMと空中発射型のアセットしか持たない。そうした中で台湾海峡や南シナ海、東シナ海での偶発的な軍事衝突がエスカレーションするリスクが指摘されている。中国は、局地的・短期的な通常戦力で優位に立つ、一方、核兵器への依存度が低いため、早期の核エスカレーションは北朝鮮やロシアに比べ可能性が低いが、相手に対して限定的な核の脅威を示す可能性がある。一方でアメリカが先行使用(First Use)に踏み切る可能がないわけではないことを知っておくことも重要だろう。
小結
中国の核戦力の近代化は、アジア太平洋地域の安全保障に大きな影響を与えており、米国および同盟国に対する抑止力を強化するだけでなく、地域的な戦略安定性を大きく揺るがす要因となっている。このため日本人がこの問題を抑えておくことは非常に重要である。
2章 拡大抑止の現状政策
日本は、非核三原則を維持しながらも、アメリカの拡大核抑止に依存している。しかし、アメリカの核戦略が大きく変化する中で、日本の安全保障政策も柔軟に対応する必要がある。そうした中で現在どのような拡大抑止に関する枠組みや実践がされているのかを確認したいと考える
(1) 米中・米露間の大国間競争
近年、米中および米露間の緊張が高まり、拡大抑止の役割がより重要になっている。特に、中国が核戦力を拡大し、ロシアが2014年のクリミア併合の前後から核の恫喝を行っていることから、アメリカの拡大抑止力の信頼性が問われていた。同盟国にとって、アメリカが攻撃を受けた場合だけでなく、自国が直接攻撃を受けた場合にも、アメリカが核抑止力を行使してくれるかが重要な関心事だ。
アメリカの核戦略における変更は、同盟国に対する抑止力の信頼性に影響を与える。バイデン政権は、核兵器の役割を低減させる方向を目指しているものの、同時に米国の拡大抑止に対する信頼性を確保するための努力も続けている。これには、2010年以来の日米拡大抑止協議(Extended Deterrence Dialogue: EDD)など、同盟国との継続的な協議が行われている。
(2) ロシアの核威嚇とヨーロッパ
ロシアはウクライナ侵攻を通じて、核兵器を含む威嚇をしている。特に、ヨーロッパでは、ロシアによる核の恫喝が現実的な脅威となっており、NATO加盟国に対する拡大抑止の重要性が再認識されてる。また欧州では冷戦期以来のニュークリアー・シェアリング*が行われているなど制度化は進んできた。一方でこうした問題からアメリカは、B-52戦略爆撃機や戦略原子力潜水艦の派遣を通じて、2014年以来ヨーロッパにおける拡大核抑止のデモンストレーションを含めた行動をとっている。
*ここでは説明を行わない。Nuclear Sharingについては、岩間陽子編、『核共有の現実:NATOの経験と日本』(信山社、2024年)を読むことをお勧めする。またNATOの核については、鶴岡路人、『模索するNATO:米欧同盟の実像』(千倉書房、2024年)も勧めたい。
(3) アジア太平洋地域での拡大抑止
アジア太平洋地域では、特に日本と韓国がアメリカの拡大抑止に依存している。中国の核戦力の近代化や北朝鮮の核開発の進展は、この地域における核抑止力を強化する必要性を浮き彫りにしている。日米、米韓間の防衛協力は継続的に強化されており、2024年には外務・防衛閣僚による日米拡大抑止に関する閣僚会合が行われた。アジアにおける拡大抑止のソフトウェアの部分は進展しているといえよう。また米韓に関してはワシントン宣言で決定された原潜の韓国寄港が行われた。これは抑止の強化ではなく、安心供与に係るものである
小結
冷戦後の核体制の変遷は、米露中の大国間競争の中で複雑化しており、核抑止の役割も多様化している。アジア太平洋地域においては、中国と北朝鮮の核戦力が増強される中で、アメリカの拡大核抑止が引き続き重要な役割を果たすことが予想される。今後、日本は、アメリカとの協力をさらに強化し、地域的な安全保障の安定に寄与するための政策を模索する必要がある。
無料枠の参考文献
・秋山信将・高橋杉雄編著、『「核の忘却」の終わり:核兵器復権の時代』、勁草書房、2019年
・森聡、「米国の対中戦略論儀:軍事的競争アプローチの新局面」、(国際安全保障学会、『国際安全保障』、50巻2号)、2022年
・Brad Roberts. 2015. “The Case for U.S. Nuclear Weapons in the 21st Century”. Stanford Security Studies(ブラッド・ロバーツ、村野将監訳、『正しい核戦略とは何か:冷戦後のアメリカの模索』、勁草書房、2022年)
・Caitlin Talmadge. 2017. “Would China Go Nuclear: Assessing the Risk of Chinese Nuclear Escalation in a Conventional War with the United States”. International Security, 41: 4
・Charles Glaser(ed’s). 2022. “Managing U.S. Nuclear Operations in the 21st Century”. Brookings Institution Press
・David Santoro(ed’s). 2022. “US-China Mutual Vulnerability Perspectives on the Debate”. Pacific Forum International
・Elbridge A. Colby & Michael S. Gerson(ed’s). 2013. “Strategic Stability: Contending Interpretation”. Strategic Studies Institution
・Fiona S. Cunningham & M. Taylor Fravel. 2015. “Assuring Assured Relation: China’s Nuclear Posture and U.S.-China Strategic Stability”. International Security, 40: 2
・Fiona S. Cunningham & M. Taylor Fravel. 2019. “Dangerous Confidence? : Chinese View on Nuclear Escalation”. International Security. 44:2
・Hans M. Kristensen, Matt Korda, Eliana Johns & Mackenzie Knight. 2024. “Chinese nuclear weapon”. Bulletin of the Atomic Scientists, 80:1
・Sugio Takahashi, “Strategic Stability and the Impact of China’s Modernizing Strategic Strike Forces”, James M. Smith & Paul J. Bolt (ed), “China’s Strategic Arsenal: Worldview, Doctrine and Systems”, Georgetown University Press, 2021.
・Wu Riqiang. 2022. “Assessing China-U.S. Inadvertent Nuclear Escalation”. International Security,46:3
・U.S Department of Defense. 2022. “Nuclear Posture Review 2022”
・U.S. Department of Defense.2023. “Military and Security Developments Involving the People’s Republic of China 2023”
補論 拡大抑止を強化する
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