L'Ecoleの昔のラベルの話
世界のTOP100ワイナリーに17回も選出され、世界一のボルドーブレンドワインにも輝いたことのあるL'Ecole41の40周年記念ボトルがリリースされました。
昔のラベルは子供の手描きラベルでスゴイ可愛かったんですよねー。でも10年ちょっと前に、歴史を感じる現在のラベルに替わりました。替わってすぐの頃、私はワインショップ数店の統括バイヤーをしていて、「絶対前の方がよかったのに・・・」と当時のオルカインターナショナルに文句言ったもんです(笑)
今回40周年ボトルが、なんと!懐かしい、あのラベルでリリースされました。
でも今となっては、見直すとやっぱり今のラベルの方がいいような気もしてきました。
と言うわけで、今回は40周年記念。あんまり語る事のないL'Ecole41の歴史と、なぜラベルが変わったかを書きます。
アメリカ合衆国の西部開拓に貢献した歴史的な探検隊である「ルイス・アンド・クラーク探検隊」ワシントン州ワラワラ・ヴァレーを通過してからわずか20年後、”フレンチタウン”はフランス系カナダ人の罠猟師と毛皮商人によって現在レコール41がある地に設立されました。
フランス系カナダ人の入植者たちは、地元のワラワラ・インディアンと結婚し、定住を始めました。彼らはワラワラ川沿いに住み、フレンチタウンの最初の学校は1860年頃に建てられた小さな丸太小屋でした。その後、1900年頃に現在の学校が建てられ、1915年8月には現在の校舎が建てられ、地元の農夫フランシス・ローデンにちなんで‘フレンチタウン’は“ローデン”と改名されました。そこはワラワラ学区(第41地区)に属していました。そのため、後にワイナリーを設立する際、創設者のベイカーとジーン・ファーガソンは、フランス語で「学校」を意味するレコールNo.41という名前を思いついたのです。
1974年に学校は閉鎖され、地元の農場が統合され、この田舎に必要な学校は少なくなっていました。ワイナリーの東側を走るローワー・ドライクリーク・ロードが、その分水嶺となり、東側に住む生徒はワラワラ学区に、西側に住む生徒はトゥシェット学区に入りました。それは現在も続いています。
ここには多くの思い出が残り、かつての生徒たちは今でもワイナリーに立ち寄ってくれます。“ここの学校に通っていたから、ちょっと見てみたいんだ”と言って玄関にやってくる地元の人たちがたくさんいます」とマーティは言っています。「もちろん、歓迎しますよ」。
レコールNo.41の隣にあるウッドワード・キャニオン・ワイナリーのオーナー、リック・スモールもその一人です。「リック・スモールが小学生だった頃、学校のグラウンドで野球のバットを持っている写真があります」とマーティは笑顔で言います。(この写真、次に行ったら絶対写してきます!)
野球場は現在、2つのワイナリーの間にあり、ブドウのが植えられています。それがボール・フィールド・ヴィンヤードです。
創設者のベイカーとジーン・ファーガソンは、長い間ワイナリーを開くことを考えていました。マーティは言います。「彼らが最初にこの夢を見始めたのは50年前だと思います。ベイカーは、ワシントン州で最も古い銀行であるベイカー・ボイヤーの頭取であり、1960年代にはフランスのボルドーやブルゴーニュの一流ワインを収集するなど、高級ワインに造詣が深かったのです。彼は農地融資の専門家として、ワシントンの気候がブドウ栽培に本当に適していることを理解していました」とマーティは言います。「ウォルター・クロアやチャス・ネーグルら業界関係者が成長を後押ししていた当時、ベイカーはそれを見て、自分もその一員になりたいと思ったのです。」
ファーガソン夫妻は1977年、この古い校舎をワイナリーにするつもりで購入しました。実は、ベイカー・ファーガソンとゲーリー・フィギンズ(ワラワラで最初のワイナリー、レオネッティ・セラーのオーナー)は、ワイナリー建設の許可を求める郡計画委員会の同じ会合に出席していました。フィギンズは1978年にレオネッティ・セラーを設立し、ファーガソン夫妻は1983年にレコールNo.41を立ち上げるまで、旧校舎の改築に数年を費やしました。
ワイナリーに改装する前、ファーガソン夫妻は校舎の屋根を取り払い、3階を増築し、その後屋根を元に戻しました。3階部分が元の建物の一部でないことは、鋭い建築の目を持っている人しかわからないかもしれません。
約15年前マーティはベル・タワー(鐘塔)を修復し、このワイナリーをさらに本物らしくしました。
1990年代後半、マーティはワラワラ・ヴァレーが成長傾向にあることを認識し、ワラワラ・ヴァレーの中心部に向かう途中で多くの人々がこの古い校舎に立ち寄ると見越し、手狭だったテイスティングルームを何とかする必要があると考えました。そして建物の完全性を保ちながらテイスティング・ルームの広さを大幅に拡大し、さらに歴史的な趣向を加えました。
「今日テイスティング・ルームに来ていただくとわかるのですが、本棚があるあの場所は、もともとは学校の図書室だったんです。「壁にコートラックがあり、衣類を展示している部屋は、子供たちのコート部屋でした」。
テイスティング・ルームの中央にあるテーブルは、ベーカー・ボイヤー銀行で使われていた世紀末の小切手立てだと言います。テイスティング・ルームの西側の壁にある4つのステンドグラスは、ワラワラのダウンタウンに今でもある、宝石店ファルケンバーグ・ジュエラーズのお店にあったものでした。
残念ながらジーンは1998年11月に他界し、ベイカーも2005年6月に他界しました。その後娘のメーガン・クラブがベイカー・ボイヤー・バンクのCEOを務めました。
長年のワシントン・ワイン・ファンなら、レコールの最初のラベルを覚えているでしょう。家族の言い伝えによると、1983年にファーガソン家の子供たちの間でコンテストが開催され、8歳のライアン・キャンベルがレコールの最初の四半世紀のラベルとなる絵を描いたそうです。
マーティは、この絵がワインショップの棚でにあっても一目でわかり、目立つことを気に入ったと言います。「本当に素晴らしかった。ユニークで、ストーリーがある。人々は、ワイナリーと自分を結びつけるストーリーを持ちたがりますからね。」
しかし、古い校舎で時が止まっているように見えた一方で、ワインの世界は変わりました。その後十数年で、世界中から何千もの新しいラベルが店頭に並ぶようになりました。動物や人物の可愛らしい絵が描かれた多くのワインはたいてい低価格帯のものでした。
「昔のラベルを見た人は、私たちのことを知らなければ、低価格帯のワインだと思ったでしょう」とマーティは言います。
年間生産量が4万ケースを超えるまでに成長したワイナリーは、流通を全米に拡大し、新しい土地ではライアンと彼の絵の意味はうまく伝わりませんでした。そこでレコールは、象徴的なラベルを脇に置き、別のものを考え出すという難しい決断を下しました。
そして2000年、レコールは新しいラベルを発表しました。マーティはまた、この機会にワラワラ・ヴァレーのブドウを使ったエステート・ワイン(白ラベル)と、より広範なコロンビア・ヴァレーのブドウを使ったワイン(チャコール色のラベル)をさりげなく区別しました。
ファンや顧客からは定期的に尋ねられますが、マーティの新しいラベルを確立し続ける決意は変わりません。
数年前、彼はレコールの近くにフレンチタウン・ヴィンヤードを設立したダンハム家から「フレンチタウン」という名前を譲り受けることに成功しました。亡くなったエリック・ダンハムは、1990年代初頭にレコールでワイン造りを最初に学んだワインメーカーの一人でした。ダンハム家が土地を売却した後、彼らはクラブにフレンチタウンの名前を提供したのです。
今日でもレコールNo.41はワラワラ・ヴァレーのトップ・ワイナリーのひとつであり、町の西数キロのハイウェイ12号線沿いにあるため、この地を訪れる観光客が最初に立ち寄ることも多いです。テイスティング・ルームの入り口の外には鐘が置かれ、看板にはロープを引くようにと書かれています。特に子供連れの家族が多いです。静まり返った空気に鐘の音が響き渡ると、休み時間が終わった小学生が列を作ろうと慌てふためく姿が目に浮かぶようです。
動画も造りました♪