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#3 アスペルガー症候群当事者として

ふと、投稿ネタを考えていたときに、こういうことを書くことが人の助けになってたこともあったなぁと思い出したので、書こう。ちょっと長くなるけれど。

まぁタイトル通り、私自身アスペルガー当事者です。厳密な診断名は広汎性発達障害で、高IQの外向奇異型といわれるタイプ。13歳のときに診断を受けて、それからというものの、それと真面目に向き合う機会が増えました。

ここ最近、その系統のポストやらネットの言説も増えてきているんですが、ちょっと私とは違う視点が多かったり、当事者としても「違うかなぁ」というものもあったので、私の視点をつらつらと言っていくことはまとめる意味も含めてやっていきましょう。

念の為言っておきますと別にこれはレポートでもなければ論文でもなく、単なるつらつら書いた個人の意見ですので、出典とかないからね!!!と。

よくある言説:決めつけすぎじゃないです?

今日はネット上で交わされているこの手の話で大前提として、皆が忘れていそうなことを3つほど言っておこうかと…

というのも、その認知の歪みのような、固定されたイメージによって、発達障害そのものをステータスとして使ったり、いじめのネタにしたり、さながら昨今の「チー牛」がごとく「私の理解できない人間に名前を与えてただ悪く言いたいだけ」というものであることが多いので。
逆に当事者でさえ、向き合わず、逃避するためにイメージを固定して自分を許そうとする姿勢も見られるので、それも違うかなぁと。

そのため、とりあえず簡単にわかりそうなことを3つほど挙げてみようかと。

分類して、行動パターンを固定しすぎ

ひとつめに挙げるのは行動パターンを固定視しすぎだなぁというところです。

アスペルガーに限らず、発達系のタイプは100人100通り、なんなら1000通りくらいにはなりそうというのは、当事者といいますか、精神科医ともよく話題になることです。これはなにも発達系の話に限らず、ニューロティピカル(発達障害ではない人たち、健常者)であったとて、その行動は、体調や背景での出来事などによって変わります。今日はできて、明日はできないなんてのは普通のことじゃないですかね?というシンプルな話です。

少しばかり言葉を変え、過激にすると「我々も人の子であって、個人の決断を行う場合、独立変数を固定しても、従属変数が変わり得る存在」であるということです。

すこし盛った例え話で言えば、あなたは駄菓子屋で10円持っていて、お買い物しようか悩んでいます。周りの同級生は10円ガムを買う人が多かったみたいです。あなたは何を買いますか?

この状況を考えてみましょう。別に蒲焼さん太郎やうまい棒買ってもいいじゃないですか。(消費税の話をしたそこのあなた、嫌いじゃない。書いててそれは思ってる)
それに、別に蒲焼さん太郎を買った人間がサイコな人間だと言えますかね?
他にも、一回うまい棒を買っただけで、今後二度と10円ガムを買えないってこともなければ、今回その10円を使わずに、将来30円のキャベツ太郎を買うために貯蓄する人もいるわけです。
それでも「10円持っているなら10円ガムを買いなさい、それ以外は悪である。普通じゃない、常軌を逸脱している。」と、ここまで簡単に「おかしい」と思えないかもしれませんが、そのレベルの言説がこの界隈には溢れているなぁと常日頃思うわけです。

別に成長しないわけでもない

これは完全に忘れられてます。

別に発達障害の診断を受けたから、そこで成長が止まるわけでもありません。加えて、発達障害だから成長がすべてにおいて遅いとそういうわけでもありません。ただ「成長に山や谷がある」というのは言えるとは思いますが。

「発達障害だから、成長きない」みたいなのは、当事者や支援者の逃げの姿勢でしょう。経験したうえで事前に防止策をとり、対処することは成長じゃありませんか?

その一度の失敗や複数回のミスを理由に「成長していない」というのは、これはある意味「お食い初めを自ら箸をもち綺麗に食べなさい」と赤ちゃんに言っていることと何ら変わりがありません。
本当にそのレベルでの雑な言説に見えますね。

別に成長しないわけでもないし、当事者が学ばないわけでもない。
当事者でさえ、間主観的に自分自身を捉えられていないと陥りがちな勘違いだとおもいます。

発達障害になる #とは

最後に、これもよく書かれることで、違和感を覚える言葉です。
「障害と名付けられたらおしまい」という考えがベースにある状況での言葉でしょうし、診断をもって発症とする人が多いです。
ただ、診断は単に現状に名前がついただけです。

発達障害はなにかがトリガーになって急にその特性が現れて発症するものでもなければ、感染するわけでもなく、生まれながらにしてもっています。

そういうものであるからして、「発達障害になる」ではなくどちらかといえば「その特性が理由で、生活に支障がでている」と医師の視点で判断しただけにすぎません。特に現在用いられている診断基準が「包括的すぎて誰でも発達障害・うつになれる時代」と揶揄されるまで広い理由もそこにあるでしょう。

いずれにせよ、なにかしらの理由で、特性が原因で生活に支障がでているから診断名を与えて適切な福祉につなげることが現在用いられているスペクトラムの概念であるというところが共有されておらず、そのような言葉としてたち現れているのでしょう。

カテゴライズして安心したい

上に挙げた3つの例全てに共通することですが、「カテゴライズして安心したい」というところから出てくる言葉でしょう。

発達障害と診断され、現状日本の社会では厳しい道のりが待ち構えてしまっています。加えて、世間の偏見も、ただでさえ個が重要視されず、同調を元に成り立っている「一億総首狩族」とまでに言われるような弱みをさらしたら殺される社会において、紛れもない「汚点」であると認知する人も多いことだと思います。

特に、このような考えは当事者ではなく、親御さんでお持ちの方も多いのではないでしょうか。最近では比較的穏やかな方も増えましたが、それが少数派であることは明らかなように思います。

私自身、ここ最近、行動の法則が一般のそれから逸脱しているように見られ、事情を話したところ
「あー。事情は理解したし、非常に合理的だと思う。けれどね…」と言われてしまったところです。
これに対して「じゃぁこうやって事情を聞けばいいじゃないですか。」と言ったら「コミュニケーションコストが高いから…」と渋られたと。

まぁ「コミュニケーションコスト」なんて言葉を使っていますが、内実としては「面倒」なんでしょう。

それ故に、手っ取り早いカテゴライズが「発達系」や「アスペ」といった言葉なのでしょう。

要するにそれにすがって安心しつつ、面倒事から逃げたいのです。
自分の不手際や不真面目さをその言葉に乗せて放置していたいだけ。

故に、そういった放言は危険であると。
これが発達系の話ではなく、他のテーマ、それこそ政治の問題や身近な解決しないといけないことであれば、個人のアイデンティティに直接的な影響をしないので、まだ話し合いは難しくないのですが、その切り離しができていない人が多いのでこういった事態をまねいているのかなと。
その辺は他のときにでも書きます。

まとめると

長くなりましたが最後にまとめます。

発達障害は…
・100人100通り、いや1000通りくらいあるから細かい分類はできません。
・成長しないわけでもないです。
・なるものでなく、もうなってます。

ということです。そして「安心のために「発達障害であること」を使うと間主観的認知が不可能になるので危険」ということです。

みんな気をつけてね。
飲まれないように。


では、また。

この辺の話はちょこちょこ混ぜ込んでいきますね~

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