将棋の局面評価の根源的な基準は「自玉を詰められるより早く相手玉を詰める」であること
当たり前のことについて述べます。
「あなた、何言ってるの?」というくらい、当たり前のことについてです。
前提:評価基準の根源
将棋の局面評価ができるのは何故か? 形勢を一元的に数値化できる根源的な理由は?
わたしが言っているのは、駒割と駒の位置関係・手番の数値化のやり方や、手の分岐(ゲーム木)の合理的な除外の仕方(Null move pruning、Futility pruningなど)のことじゃありません。
もっと根源的な。何を根拠に、局面や手のよい・悪いを評価しているのか?
それは、「自玉を詰められるより早く相手玉を詰める」という最終目的を基準にしていること。
たとえば、駒を取る行為は、よい評価をされることが多い。駒を取ることで、相手玉の詰みが早くなるから。しかし、駒を取ることで、自玉の詰みが、相手玉の詰みより早くなる場合は、悪い評価をされる。
駒を取る行為自体によい・悪いはなく、「自玉を詰められるより早く相手玉を詰める」という最終目的を基準にしてよい・悪いを評価される。その場合が多いから、良い評価をされる場合が多いだけのこと。
言いたいこと:根源がなくなった状況
で、わたしが言いたいのは、「自玉を詰められるより早く相手玉を詰める」という最終目的がなくなった場合です。そんな場合があり得ないにしても、です。
自玉を詰められても、駒を全部取られても負けにならない状態になった場合、相手玉を詰めることに価値がなくなる。駒を取ることにも価値がなくなります。
その状況で交互に駒を動かしていく、とする。
その場合でも、元の最終目的を知っている人――将棋に詳しい人はとくに、なんとなく「自玉を詰められるより早く相手玉を詰める」ことができる形がいいように思えてしまうんじゃないか、と。たとえば、雁木や美濃囲いの定跡の形がいいよう思えてしまう。
実際には、よい・悪いの評価自体がなくなっているので、よいも悪いもない。せいぜい、「自分はこの形がいいと思う」と言い張るくらいしかない。あるいは、自分で「この形(前述の雁木なり美濃囲いなりの形)」と、ひとまずの目的を決めて駒を動かしていくか……。
このルールでも一応、一局の終わりはあります。どちらかが相手の駒をすべて取り切るか、動かせる駒がなくなるかすれば、それ以上やれることがないので、それで終わりになる。ただ、べつに駒を取られた方、動かせる駒がなくなった方が、負けになるわけではない。
どちらかの動かせる駒がなくなるまで、交互に駒を動かしつづける作業をつづけるだけです。
結論
結論としては、「将棋の局面評価ができるのは「『自玉を詰められるより早く相手玉を詰める』という最終目的があるから」。駒を取る行為の良し悪しも、その最終目的を基準に評価しているのであって、駒を取る行為自体に善し悪しがあるのではない。そして、最終目的を取り払ってしまうと、局面評価はできなくなる。手の評価もできなくなる。ただ、それまでの勝敗の習慣から、なんとなく相手玉を詰める形をよいと思ってしまう。とくに、将棋に詳しい人ほどその傾向がある。
「だから何だ?」と思うかもしれませんが、以上。