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【史料訳】書簡:ナッサウ伯ハンス=エルンストからナッサウ伯ヨハン六世へ ~孫から祖父への戦況報告書簡3通



はじめに

右下マウリッツの横の2人の若者(ひげがない)はハンスとアンリかもしれません。

Lambert Cornelisz. (1601-1602) 「ラインベルク攻囲戦 (1601)」 In Wikimedia Commons 

本館の記事2本内での既出史料訳のため、有料記事ではありません。3通とも発信人、受信人、書かれた年(1601年)すべて同じなのでこちらにまとめました。

史料訳と注のみ単に転載しただけのものになります。文脈を考慮し意訳しています。また、段落も読みやすいように内容によって分割しました。

文中の攻囲戦や登場人物等一般的にはマイナーだと思いますので、前後関係合わせて本館記事もぜひどうぞ。

2通めのラインベルクでの初陣のハンスの手紙には、まだなんとなく初々しさが感じられます。この後、ナッサウ伯エルンスト=カシミールの連隊を中心として、ハンスを含む何人かはオーステンデに転戦しますが、この手紙からわずか3ヵ月後のオーステンデからの手紙(3通め)は、そこから受ける印象にだいぶ変化が見て取れます。

文中の人物については、本館に記事のある人物については記事最後尾にリンクを列記しました。発信人と受信人のみ軽くここに記載します。


受信人:ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン六世

オランイェ公ウィレム一世(「祖国の父」、ドイツ語だとナッサウ伯ヴィルヘルム)の次弟。長兄がオランイェ公となったため、ドイツ・オットー系ナッサウ伯の長となりました。子だくさん孫だくさん。同名の次男ヨハン七世も、同じく長兄のウィレム=ローデウェイク(ドイツ語だとヴィルヘルム=ルートヴィヒ)がオランダでの職務を優先し実質的に継承を放棄したため、ドイツに留まり跡継ぎの位置にいます。オランダで軍務に就く息子たち・甥(ナッサウ伯マウリッツ)・孫たちからだけではなく、ヨーロッパのあちこちから日々膨大な量の書簡を受け取っており、その居城は情報集積センターと化しています。

発信人:ナッサウ伯ヨハン=エルンスト(ハンス)

ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン七世の長男。1601年のこの3通の手紙を書いた時点で18歳、成人し従軍年齢となった直後です。祖父ヨハン六世、父ヨハン七世、次弟ヨハン八世とヨハンだらけなので(長男と次男が同じ名前なのもめずらしい)、自称他称ともに「ハンス」です。さすがに書簡の署名は本名の「ヨハン=エルンスト」で書いていますが。この時点で跡継ぎの長男という位置づけ、且つ、成人直前までオランダの伯父ウィレム=ローデウェイクの元で盾持ちをしていました。そのため2月時点でまだレーワルデンに居る模様です。伯父ウィレム=ローデウェイクと父ヨハン七世が人並外れて教育熱心でダメ出し半端ない(これも書簡で残ってます)こともあり、かなりのおじいちゃんっ子。


1. ハンス=エルンスト伯から祖父のヨハン六世へ レーワルデンでの近況

おじい様*1、ぼくがここに来て数ヶ月、お便りしなかったのは、お知らせするほどのニュースがなかったからじゃないかと、どうかお気を悪くされないでください。

季節になりしだい*2すぐにぼくたちとの戦争を開始できるようにと、敵が兵力を増強して大掛かりな準備をしている、との雑音が日に日に高まっています。陸海両方から、大軍で攻められるんじゃないかと本気で信じている人までいます。

フランドルに投入されるスペイン海軍は5000人といわれていますが、オランダの軍艦はわずかしかなく、とても太刀打ちできる数ではないでしょう。商人の情報によれば、アルマダはこの前アイルランド沖の嵐で沈んだ*3とのことですが、それでも二方向からの攻撃になれば戦争が凄惨なものになるのは間違いありません。

ここでの情報は不確かです。かんたんに入手できる類の情報でもありませんし、先月末まで毎日のように情報が上書きされていました。

提督*4が捕虜交換で釈放されました。まもなく、スペインや他の場所で捕虜になっていたオランダの兵士・市民・商人たちも戻ってくるでしょう。また、フランス国王とサヴォイア公の和平*5によって、さらに確実な情報が入ってくるようになると思います。もしそちらでも情報があればお知らせください、おじい様、貴方のいちばん従順な孫、ヨハン=エルンスト

レーワルデン*6にて、1601年2月1日
ディレンブルクの祖父上様、ナッサウ伯大ヤン様

注釈

  1. ナッサウ伯ヨハン六世(大ヤン)のこと。ディレンブルク在住。ハンスにとっては祖父にあたります。

  2. 当時のヨーロッパでは通常冬季(winter quarter)は戦闘行為を行いません。だいたい6-11月が戦争の季節です。

  3. 事実確認できず。噂の域に留まっているものかもしれません。

  4. アラゴン提督フランシスコ・デ・メンドーサのこと。先年1600年のニーウポールトの戦いで捕虜となり、そのままずっとハーグに逗留していました。1601年1月に捕虜交換が決定されたようです。

  5. 仏国王アンリ四世とサヴォイア公カルロ一世エマヌエーレの間で交わされた「リヨン条約」のこと。ハンスの実弟アドルフがこの時ちょうどリヨンでアンリ四世の晩餐に招かれています。ハンスがわずか13日前の情報をすでに得ていることがわかります。

  6. フリースラント州の州都。伯父のフリースラント州総督ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクの屋敷に居るようです。そのため、ハンスも日々多くの情報に触れることができていると思われます。


2. ハンス=エルンスト伯から祖父のヤン六世へ ラインベルク攻囲戦

おじい様*1へ。マウリッツ閣下*2がラインベルク攻囲戦を開始した、とお知らせした前回の手紙は、もう受け取っていただいていると思います。

ゾルムス伯*3やエルンスト=カシミール伯*4が陣を張っている場所に、敵が、3回か4回、襲撃を仕掛けてきました。どれも1000人前後は居て、けっこう本格的な襲撃です。フランス連隊の中隊長をしているシャティヨン*5が、一度目の襲撃のときに怪我をしました。

でも閣下がキャンプの周りにたくさんの方形堡を建ててくれたので、何も恐れることはありません。20000人の敵連隊*6が救援に来ましたが、諦めて帰っていきました。こんな感じで、まだ城壁に突破口を開けるところまではきていません。防御に手が回りすぎていますから。

今夜あたり、砲台で作戦があるようです。

騎兵に加えて、ここから砲撃を仕掛ければ、敵はかなりのダメージを受けるでしょうね。坑道はだいぶ掘り進んでいるので、僕らの側と向こう側の両方から、砲台には容易に近づけます。今夜、やっと奴らに反撃を食らわせてやれます。そしていずれ街は降伏するものと思います。神のご加護を。

去年あたりから閣下のフランドル戦線によく見学に来ているノーサンバーランド伯*7とかいうイングランド人が、きのうキャンプに到着しました。

それと、父上*8が今日そちらに向かいました。おじい様の手にキスを、とお願いしておきましたよ。

おじい様ももっと読みたいでしょう、僕ももっと書きたいけれど、時間のようです。僕の生涯のすべてを賭けて、おじい様、
貴方のいちばん従順な孫、 ヨハン=エルンスト

ベルクのキャンプにて、旧暦1601年6月20日
ディレンブルクの祖父上様、ナッサウ伯大ヤン様

注釈

  1. ナッサウ伯ヨハン六世(大ヤン)のこと。ディレンブルク在住。ハンスにとっては祖父にあたります。

  2. ナッサウ伯マウリッツのこと。この戦いの総司令官。いちばん上の地図だと、右側のキャンプ本陣に居ます。

  3. ゾルムス伯ゲオルク=エバーハルト。ドイツ連隊の将軍で、「反乱」時代からの古参。いちばん上の地図だと、左上のキャンプに居ます。ここら辺では唯一の高台なので、ここがハンスの居る「ベルク」のキャンプでしょう。騎兵連隊もこちらに集められているようです。

  4. ナッサウ伯エルンスト=カシミール。ハンスの叔父(とはいっても年齢は10歳も変わらない)。ハンスの教育係。

  5. アンリ・ド・コリニー=シャティヨン。フランスのコリニー提督の孫。ハンスとは同い年で親友の一人。

  6. スペイン軍のファン・デン=ベルフ伯ヘルマン将軍の連隊のこと。ラインベルク救援を試みるものの、マウリッツの防衛線を見て早々に撤退します。いちばん上の地図だと、右上の中洲部分を除いて、ほぼ三方に砦とそれらを結ぶ塹壕が整備されています。

  7. 第9代ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシーのこと。軍人というよりはどちらかというと文人。オランダ軍の攻囲戦見学にたびたび訪れていたらしい。ハンスは英語の名前に馴染みがなかったのか、ちょっとへんな綴りで書いています。

  8. ナッサウ伯ヤン七世(中ヤン)のこと。ハンスの父親で放浪癖有り。とくにこの1601年は、スイスからスウェーデンまで、最も広範囲に出没します。どうやらここに居たらしい。そして途中で帰宅したらしい。


3. ハンス=エルンスト伯から祖父のヨハン六世へ オーステンデ攻囲戦

おじい様*1、ぼくはもうここに5日めか6日めでしょうか。敵は南側以外の坑道を掘り進めてきています。南側*2を守るイングランド軍のヴィアー将軍*3はまだ市外にいます。

砲台の建設が始まりました。おとといの夕方、我が軍はそれを阻止するために出撃しました。そこは守備兵も少なく見えました。

西側*4では堤防に穴を開けられて、坑道には敵の泥が水の力で一日中入り込むようになっています。きのうの夜は、丈夫な石や土嚢を使って水の漏れる穴をふさいでやろう、と言ってフランス人たちがやってきました。彼らの作業によって、対壕を掘ったり塹壕に地雷を埋めたりできるほどに改善しました。

けれどそこにフランス連隊のシャティヨン中隊長*5は居ません。2-3日前に大砲の弾を受けて死んでしまっていました。誰一人悲しまない者がいないほど、彼は勇敢な男でした。敵の側でも、指揮を執っていたカトリスという貴族が死にました。

おじい様、信じられますか。攻囲戦がはじまってからこちら、敵は周りを大砲で囲んで、もう80,000発以上の弾丸*6を撃ち込んでいるんです。ここに居る外科医たちは、大砲で重傷を負った兵士だけを数えても、500人以上の腕や脚を切ったと言っています。

閣下はここではなく、ミデルブルフ*7にいます。

ぼくらは、リールの村*8でちょっとした冒険を計画していたんですが、農民に見つかってしまって、結局やらずじまいに終わってしまいました。

おじい様、手紙を書く時間が取れないことをどうかお許しください。神がお望みになれば、またの機会もあるでしょう。

心の底より、ぼくの生涯のすべてを賭けて、おじい様、
貴方のいちばん従順な孫、 ヨハン=エルンスト
オーステンデにて、旧暦1601年9月14日
ディレンブルクの祖父上様、ナッサウ伯大ヤン様

注釈

  1. ナッサウ伯ヨハン六世(大ヤン)のこと。ディレンブルク在住。ハンスにとっては祖父にあたります。

  2. 上掲の地図だと、ちょうど絵の中央のあたりと思われます。最激戦区。

  3. 駐蘭英軍総司令官フランシス・ヴィアーのこと。イングランド軍は本国の意向で7月15日からオーステンデに投入されています。8月4日から9月19日まで、フランシスは頭部の重傷のため一時期街を離れています。ハンスは旧暦と明記しているので手紙の書かれたのは新暦換算で9月24日、5-6日前にオーステンデ入りしたとすると、フランシスに同行して来た可能性もあります。

  4. 海岸に面した、街のいちばん左隅。上掲の地図だと、左上に描かれたコンパスのちょうど右側付近と思われます。ヴィアーの居る南側と並んで、「地獄の口」と呼ばれた最激戦区の双璧。

  5. アンリ・ド・コリニー=シャティヨン。フランスのコリニー提督の孫。ハンスとは同い年で親友の一人。流れ弾に当たり戦死。

  6. ユリウス暦の日付から換算して、2ヶ月半くらい。1日あたりの砲弾1000発という計算になります。さすがに誇張もあると思われますが、相当の砲撃数です。

  7. ナッサウ伯マウリッツのこと。オランダ軍最高指揮権者。怪我の治療のためフランシス・ヴィアーが居たのもミデルブルフなので、作戦基地を置いていたのかもしれません。

  8. 場所は特定できませんでした。作戦というのも、おそらく少数での夜襲か何かと思われます。


リファレンス


人物リファレンス(文中・注釈内登場順)

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