サブカルの雨に打たれて──『花束みたいな恋をした』に寄せるラブレターのようなもの
エアスポット的な時間を見つけて映画館に足を運ぶことにした。
『パラサイト 半地下の家族』以来である。
手のかかる子どもたちやら一向に下火にならない感染症やらで、唇噛みしめて我慢していた映画鑑賞。
ライトな(?)ハロプロヲタだった自分を思えば『あの頃。』を観ないわけにはいかないのだが、坂元裕二脚本の『花束みたいな恋をした』ではサブカル成分が浴びるように摂取できると聞き及び、なんなら穂村弘や長嶋有も出てくると聞いて、こちらを選択した。
Webで座席まで予約して、現地でチケット受取だけにして快適にGO。
同じ並びの席に座る男性客ふたりが特別映像に入ってもべちゃくちゃ喋っているので、「静かにしてもらえませんか」と声をかけてしまった。
※以下、ネタバレを含みます。っていうかほぼほぼあらすじをなぞったレビューとなります。
事前情報なしでこれから観に行かれるかたは、鑑賞後にまた来てね。
✄-------------------キリトリ ------------------✄
「あなたたちでしたか! 数々の実写版を生みだしてきたのは!」
自称マニアックな男と彼に迎合する女の好きな映画を聞いた麦の、心の叫び。
笑いをこらえたら腹筋が痛くなった。
菅田将暉演じる麦と、有村架純演じる絹。
学生である彼らはある晩終電ダッシュしながら出会い、なりゆきで互いのサブカル寄りな趣味を披露し合って、多くの共通点を見出す。
もどかしい友達期間を経てふたりは恋人同士になり、フリーターとして働きながら調布駅から徒歩30分の物件で同棲を始める。
ああああ、尊いってこういうことを指すんだろうな。純粋に思った。
まるで自分の本棚みたいな、相手の本棚。ジャックパーセルのスニーカーも、天竺鼠のお笑いライブに行こうとしていたことも、「菊地成孔の粋な夜電波」を聴いていたことも、偶然同じで。
お互い見目麗しく、暑苦しくない適度な温度感で暮らして、笑顔が絶えなくて(※この辺がサブカル人種にはあまり見えない点が惜しいと言えば惜しい。付き合う前にミイラ展に行ったのに恋人になったらやっぱり青い海でデートするんだ、とか)。
夫婦で経営しているパン屋の焼きそばパンにはまって、夜道でコーヒー飲みながら帰って、ベランダで多摩川を見ながら肩寄せ合って、黒猫拾って飼って。
そんな素敵なふたりのかわいくて文化的な生活をいつまでも見ていたいと思わせておきながら、ふたりが別れる運命であることは冒頭に(なんならタイトルでも)提示されているのだから、あまりにむごい。
ふたりの恋を浸食したのは、どちらかの死に至る病でもなく、夢を叶えるための海外行きでもなく、当て馬のモブキャラでもない。
生活である。
さらに言えば、生活を維持するために手放したものと、特別だと信じていた自分たちの凡庸さに気づかされたこと、だろうか。
この解釈は鑑賞者の数だけあると思う。
細々と描いていたイラストの仕事を切られ、現実を見据えて正社員として就職した麦は、社畜とまではいかないが社会人として適応すべく、髪を切ってビジネス本を読み、残業の日々に身を投じる。
絹との約束を反故にして出張前日に現地に前乗りし、絹の貸してくれた小説『茄子の輝き』(これがまたなんという絶妙なチョイス……)を粗雑に扱ってしまう。
会社でトラブルが起きればその対策本部に据えられ、焼きそばパンの店が閉店したと嘆く絹にもドライな対応。
それでいて自分の先輩が亡くなったときには、葬儀から帰ってすぐ寝てしまった彼女に物足りなさを覚える。
心のざらつきがくっきりと輪郭を持ち始める。
以前のように文化的な刺激が「入ってこない」、パズドラしかできなくなってしまったと自覚する麦。
この辺が非常に生々しく、刺さりまくった。自分も育児に行き詰まって感性が鈍っていると感じることがある(だから思いきってこの映画を観に行った)。
産前産後はぷよクエしかやる気になれず、毎晩暗い部屋で授乳しながらプレイしていたら飛蚊症になってしまった。
摂取したいのに、感性が閉じてしまう悲しみ。
放り投げてしまったものは容易に取り戻せない。鮮やかなポップカルチャーに彩られて暮らした日々は、現実というペンキによってどんよりと息づまる色に塗り替えられてゆく。
絹が趣味を生かせるイベント会社に転職すると、「そんなの遊びの延長だろ」と不快感を露わにし、流れで最悪なプロポーズに至って絹を失望させる。
ああ、ああ。胸が痛すぎてスクリーンを直視できなくなってくる。
所詮、麦にとって趣味とは、文化とは、夢とは、その程度だったのだろうか。ファッション的に表層を撫でていただけなのだろうか。
しかし、誰が彼を責められよう。
社会に迎合する、なりふり構わず会社人間となって家計を支える、そのために己を殺さざるを得ない若者たちが日本にどれだけいるだろう。ひとりひとりが、ディープで豊かな趣味や才能を持っていたかもしれないのに。
そう思い至ってぞっとし、胸をつまらせずにいられない。
さらにぞっとしたのが、久しぶりのはずのセックスの後のあの、真顔。あのどろりとした無表情。
ふたりが大切にしていたはずのスキンシップさえもはや何の感動も呼び起こさないものであるということの絶望を、こんなふうにさらりと見せつけてくる恋愛映画があっただろうか。
口にせずとも互いの頭に別れが浮かんでいることを無言で伝えてくる手法のおそるべきセンスよ。
とうとう別れることを決意して入ったファミレスで、それでも最後に麦は粘る。
「結婚しようよ。恋愛感情がなくたっていいじゃない。そういう夫婦、いくらでもいるじゃない」
――違うのだ。パートナーから恋愛感情がないことを前提とされた上でする結婚なんて、女性にとっては。いや、絹にとっては。
「今日楽しかったから、楽しい気分のまま終わりにしよう」
そのとき近くの席に座ってきた、知り合って間もないと思われる若い男女。長谷川白紙や崎山蒼志を好きだと意気投合し、あなたはどうしているかと考えていましたと初々しく打ち明け合う。
苦い涙を流すふたり。たまらなくなって店外へ飛び出す絹を優しく抱きしめる麦。
恋を枯らしてしまった自分たちが失ったものを徹底的に見せつけられた瞬間でもあるし、ディープな趣味を持つ特別な者同士と思っていた自分たちなどどこにでもいる平凡な若者だったことに気づいた打撃もきっと大きかったことだろう。
――すごい。全編に渡り、細部まで見せかたがもう、卓抜だ。
日本の恋愛映画ってこんなもんだろう、というイメージをぶち破ってくれた。
それは雨を降らせるがごとく盛り込まれたたくさんの文化的固有名詞と、生活の変化によってそれらを手放してゆくという胸の痛い現実を、丁寧に掘り下げて描いた賜物であろう。
この先、Awesome City Clubやフレンズを聴いたら、あの尊いふたりを想って胸をしめつけられずにはいられないし、クロノスタシスを思わずにデジタル時計のキリ番を見ることもできない。
ひとつだけ言うならば、サブカルおたく(という言葉は出てこないけれど)の若者を描くならば、もう少しどこか影があってもよかったかもしれない。
メインカルチャーよりもマニアック寄りの趣味嗜好を共有するふたり、というところまでは充分に伝わるが、彼らはあまりにきらきらしており、初対面の相手に臆せず自然体ではきはきと話せる人種であった。
ここでどうしても『モテキ』と比較してしまうのだが(ありがちでごめん)、人の目を直視できずボソボソと喋り、おどおどしつつも急に雄弁になったりする森山未來が演じたフジくんは、生々しいほどリアルだった。
つまるところ、フジくんが叫んだ「フェスに来るおしゃれなカップルなんか、絶滅しちゃえよおおおお!」の「おしゃれなカップル」にあたるのが麦と絹なのかもしれない。
そのような位置づけと捉えると、納得がゆくのである。
生きているうちに第二歌集を出すために使わせていただきます。