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偉大なる精霊がわたしたちを故郷に呼ぶとき(1)
作:シャイナン・バークレー
訳:渡邉雅子
☆☆☆
その昔、肥沃なマタヌスカの谷にアヌクトピックと妻のコユクタックが平和に暮らしていました。この谷には、そのずっと以前から彼らのが先祖が大きな河で魚釣りをし、トウモロコシ畑を耕し、狩りをして暮らしてきました。
幼いころから仲よしだったアヌクトピックとコユクタックは、いつも偉大なる精霊グレートスピリットの道を歩んできました。
母なる大自然のサイクルと共に生きるふたりは、その土地に住む動物たちの賢い守護人でもありました。
それはそれは多くの季節が過ぎ去り、かれらの心には思い出が、魂には知恵が、顔には人生のさまざまな物語が筋になって刻み込まれていきました。
彼らは毎日、日の出から日没まで自然の豊かな恵みを受けとりながら、グレートスピリットに祝福されてきたのでした。そして今、ふたりは人生の黄昏の季節を迎えていました。
近ごろ、アヌクトピックはもう山猫のように機敏に動くことがなくなりました。以前はしっぽが白い女鹿のように軽やかに踊ったコユクタックも、この頃は森のカメのようにゆっくりと歩くようになりました。
一日の仕事を終えると、ふたりはよく森の小道を通って、川のほとりまでゆっくりと歩いていきました。そして一緒に、時には別々に、母なる大海原へとすべての堆積物を運んでいく川の流れを静かに見つめました。
ある日の夕暮れ時、アヌクトピックは薄暗くなった川べりにひとり座っていました。その姿は、銀色に波打つ水面に不思議な影を映しだしていました。
「お爺さん、寝ているの?」川沿いの小道をくだって近づいてきたコユクタックが、背後から声をかけました。
「あんまりじっとしているから、グレートスピリットがあなたを故郷に呼び戻したのかと思ってしまいましたよ。」
「うむ…、いや、まだじゃ、いとしい嫁さんよ。」ゆっくり振り向きながら、アヌクトピックはつぶやきました。それから、妻の手をとり自分の方に引き寄せ、となりの切り株の上に座らせました。彼女をやさしく見つめるその眼は涙でうるんでいました。
「だが、わしの番はもうすぐやってくる…。どうもグレートスピリットがわしを故郷に呼んでいるような気がするんじゃ。」
コユクタックは自分のしわだらけの手で夫の風化した頬にやさしく触れながら、言いました。
「どうしてグレートスピリットがあなたを呼んでいるなんて分かるの?」
「うむ…、近ごろ、わしには鳥たちのさえずりがまるで濃い霧の向こうからこだましてくるように、なんともやさしく聞こえるのじゃ。地平線を見わたせば、トナカイの群れがまるで蜃気楼のようにひとかたまりに溶けていくように見える…。そればかりか、わしの心臓は時たま激しく脈打つようになった…。まるで若いころ、険しい山へ山猫をおいかけて忍び寄っていった時のようにのう。そして、息ができないほど苦しくなる。まるで体がわしから離れて抜け殻になっていくようじゃ。
「わしには、グレートスピリットが故郷に呼んでいる声が聞こえる…。そう、風の中で、夢の中で、幻で、直感で…。コユクタックや、わしらも近々別れを告げねばならんだろうな。」
長い沈黙のあと、コユクタックはこたえました。
「わたしたちには互いに別れを告げる時があって、なんて幸運でしょう。
蝶がはばたく一瞬のうちにグレートスピリットに呼び戻される人たちだっていますもの。そんな時は、さよならさえ言えない。
「中には、あまりにもグレートスピリットから離れすぎてしまって、別れを怖がっている人もいます。そして、人生の喜びを通り越して骨と化すまで、その恐れにずっとしがみついていたりするのですね。
「わたしは、日没時にいつも別れを告げ、翌日まで何もやり残さない人たちも観てきました。かれらはグレートスピリットに呼ばれる時、自由に去っていくことができるのですね…。なんと美しく、いさぎよく去っていくことでしょう。まるで、煙の敏捷な羽根に乗って、スピリットの世界に運ばれていく踊る火のように…。」
「たしかに、彼らは賢い…」老人はうなづきました。
「彼らは、人生のどんな重荷も心に残さんからのう。らくにいさぎよく去っていくには、すべての思い出が羽根ほどの軽さでなければならん。だが、わしの心の中を覗いてみると、どうだろう、そこには岩のように固い風景が山ほどある。悲しみや怒り、痛みがまだ残っているのじゃ。わしの心を羽根とくらべたら、鷲の羽根に乗って太陽に向かって飛びたって行くどころか、
深く暗い穴ぐらに引きずり落とされてしまうだろう。」
翌朝、彼は言いました。「コユクタックや、もうわしのために狩りでとった肉を料理してくれんでもいい。これからは、粥と煮汁だけをとることにしよう。」
彼は息子や娘たち、友人、隣人、昔の敵たちに別れを告げる時が来たことを知らせました。心が春の小川のように清らかになるまで、思い出を浄化するときが来たのです。