久坂玄機は、意見書を、書き続けていた。 睡眠は、わずかしか取らず、食事も、自室に運ばせていた。しかも、食事には、手のついていないことが、しばしばだった。 義助が、玄機の部屋の前で、息をひそめて、聞き耳を立てていても、筆が紙の上を走る音は、途絶え気味になっていった。代わりに聞こえてくるのは、玄機の、唸るような声ばかりだった。 ―兄上が、苦しんでいる そう考えると、義助の胸は、痛んだ。そして、尊敬する兄を苦しめる、ペリーへの憎悪を、さらに、燃え上がらせていった。 父の
ペリーは、来年春の再訪を告げて、日本を離れた。 江戸幕府は、それまでに、ペリーから渡された、アメリカ大統領の親書への、返事を用意しなければならない。 親書は、アメリカの漂流民が、日本に流れ着いたときは、手厚く保護し、日本に立ち寄るアメリカ船に、物資を供与するとともに、いくつかの港を開くことを要求していた。 幕府は、早急な対応を、迫られた。 実は、幕府は、アメリカ艦隊が、日本遠征の準備をしているという情報を、1年前に、入手していた。 しかし、幕府は、この情報を、黙殺
浦賀沖に投錨している、4隻の黒船を率いているのは、アメリカ合衆国、東インド艦隊、司令長官のマシュー・ペリーだった。 艦隊が姿を現してから6日後、久里浜に軍艦1隻が近づいてきた。軍艦の立てる波頭が、その威容を際立たせている。 海岸には、応接のための会場が、設けられていた。会場をぐるりと取り囲む天幕に、徳川家の家紋が、黒く刻印されている。 その外側に張り巡らされた、木の柵には、びっしりと、見物人が、へばりついていた。 見物人の中には、寅次郎と宮部もいる。 しばらくする
吉田寅次郎が、望遠鏡で、海の向こうを、一心不乱に覗き込んでいる。望遠鏡の円の中には、巨大な黒船が収まっている。 寅次郎は、望遠鏡を目から離すと、懐紙を取り出して、筆で図のようなものを描きながら、何やらブツブツ、つぶやいている。 寅次郎の傍らには、先ほどから、一人の男が立っている。 男が、寅次郎の傍に立ってから、しばらく時間がたっているのだが、寅次郎は全く気付いていない。男の方も、黒船観察に夢中な寅次郎を、黙って、見守っている。 寅次郎が、筆を筆入れに戻し、懐紙を懐中
1853年6月3日、早朝の浦賀。 家々から炊事の煙が上がり、漁民たちが、浜辺で、漁の準備をしている頃、海上を覆う霧(きり)の奥から、巨大な軍艦が、次々と現れた。 すでに沖に出ていた舟が、軍艦の立てる白波で、木の葉のように舞っている。 軍艦は、甲冑をまとっているように、黒い鉄で覆われて、濛々(もうもう)と黒煙を吐いている。 漁民たちは、漁の道具を打ち捨てて、転がるように駆け上がってくる。 「みんな、逃げろぉ〰〰!化け物だぁ〰〰!!」 浦賀町は、一気に大混乱に陥った。
高杉晋作は、天保10年(1839年)、萩城下の菊屋横丁で、上級武士の家に生まれた。 高杉家は、藩主一門、永代家老などに次ぐ家柄で、戦の時には、藩主の廻りを固めるため「馬廻り」と呼ばれていた。 父の小忠太は、有能な官吏で、藩の要職を歴任した。その小忠太の頭痛の種が、嫡子の晋作だった。 小忠太は、晋作にも、有能な官吏であることを望んでいた。しかし、当の晋作は、学問などに、全く興味を示さない。それどころか、近所の悪ガキとつるんで、悪戯ばかりしている。 先日も、萩城下で塾を
吉松淳蔵の私塾は、萩城下の平安古にあった。この塾は、城下で最も有名であり、大組士から軽輩まで、身分を問わず、多くの若者が通っていた。 13歳の久坂義助もまた、吉松塾で学ぶ学生の一人だったが、すでに、萩中にその名を知られる程の秀才ぶりを発揮していた。師の吉松も、「これほど頭の良い子は見たことがない」と感嘆の声を上げる程だった。 義助が生まれた久坂家は、長州藩毛利家に代々仕える医家だった。父の良廸は、勤勉実直な人柄で、藩主毛利敬親の信任も厚かった。義助は、当然、
義助が塾の門を潜ろうとすると、中から少年が、転がるように飛び出してきた。義助は、体をよけて、少年をかわした。 「わるい!」 少年は、こちらに向き直ると、柿をひとつ投げてよこし、すぐさま北の方に向かって走り去って行った。義助と同い年ぐらいだろうか。 その姿を呆然と見送る義助の側を、荒い息遣いの男が、走り抜けた。師匠の吉松淳蔵だ。ハアハア肩で息をつきながら、左右を見回している。 師匠は義助の方を振り向いた。その目は怒りで血走っている。 義助はたじろいだ。手にした柿を、後ろ