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藤原ちからの欧州滞在記2024 Day 23
日曜日。朝10時半からトリエンナーレ・ミラノで「マスタークラス」のワークショップ。若手アーティスト育成ラボ「FOG Machine」の参加者数名に加えて、一般公募の人々も参加。昨日のトークは『演劇クエスト』に特化したものだったから、今日のワークショップはorangcosongの各プロジェクトの紹介と、月1でオンラインで開催している「町を旅する読書会」のオンサイトバージョン、という二本立て。よくある機材トラブルでプロジェクターに繋がらず、もういいですよ、動画やスライドはパソコンでちょいと見せるだけにします、と始めたところでプロジェクターが繋がって……とやや不運な立ち上がりになる。いつも思うけど、こういうのって施設側で前日とか早めの時間帯に試しておいてもらえたらスムーズなのにな……。それと会場の音響的に声が届きにくく、参加者がみんな思ってた以上にシャイだったこともあって、立ち上がりはだいぶスローな雰囲気に。もっとアイスブレークとか身体を使う系のワークをやったほうがよかったかな……でも無理やり身体を起動させるのはあんまり好きじゃないんだよな……。キプロスの猫のプロジェクトの紹介は反応がよくてちょっと意外。エピソードベースだからイメージが掴みやすいのかも。
このマスタークラスでは英語を使うことになっていて、事前に提出してもらったCVを見るかぎりみんな英語は(たぶんわたしや実里さんより)堪能ということなんだけど、どうも英語が足枷になっている気がする。わたしはみなさんに英語を強いたくはないんです、英語はたしかに便利な言語だけど、みなさんの第一言語がそれじゃないことはわかっていますし、言語というのは感情や身体と結びついています、だからもし第一言語やその他の言語を使いたくなったら使ってみてください、と途中でルール変更を試みる。ひとり、イタリア語で喋ってくれた人がいて、やっぱり全然違うバイブレーションが身体から出てきて、そこからだいぶ雰囲気が変わっていく。もし、言語と身体の関係についてちょっとでも感じてくれたらそれでいいかな……。
わたしにとっても大きな経験になった。英語を使って仕事するようになってから10年が経つけれど、結局のところこの英語ってやつは何なのだろう?という疑問と不思議は年々膨らんでいく。たぶん最初の5年くらいは英語に対する反発のほうが強かったと思うけど、最近はもはや諦めに近いというか、冷たい目で見ている。それは例えば生成AIを扱う時の感覚にも似ている。全然好きじゃない、でも役には立つし、おそらくこの後も人類を侵食していくであろうもの。それを扱うことで自分の能力は拡張される。それは、悪魔と契約をしているようでもある。
いづみさんとジョルジョさんと合流し、センピオーネ公園のキオスクへ。いつも混んでいる店だけど、たまたまテーブルがひとつ空いている。わたしはビール。実里さんといづみさんは別卓で女の人たちが飲んでいる謎の飲料が気になったらしく、訊いてみるとBrasilenaというものらしい。実里さんたちはそれにチャレンジ。ちょっと分けてもらうと、あれ、美味しい……。要するにコーヒーのソーダ割りらしい。するとキオスクの店主が奥から出てきて、おお、よくぞこれを買ってくれた! これはカラブリアの飲み物なんだ! と大興奮して語ってくれる。そしてわざわざわたしたちのテーブルにも来て、カラブリア特産のベルガモットの入ったお菓子をサービスしてくれる。彼はカラブリア地方の出身らしい。わあ、なんかいいなあ、この熱い感じ。……というわけで、カラブリアが「いつか行ってみたい場所」のリストに加わる。
ビールとスプリッツによる酔いと2日続けての寝不足がたたって、もう体力的には限界……。この後の観劇、大丈夫かな。16時からの公演を、てっきりいづみさんとジョルジョさんも観るのかと思ったら、ここでお別れとのことで、もちろん今生の別れとかではないけれど、すごく寂しい。またミラノかどこかでは会えるはず。次は横浜かな……。
実はトリエンナーレ・ミラノ内の劇場で観劇するのはこれが初めて。その『Bronx Gothic』はブロンクス地区の黒人の置かれた状況についてのひとり芝居だと思われる(違ってたらごめんなさい、自分の英語理解能力と体調ではこのスラング満載のネイティブ英語を完全に把握するのは難しかった)。カーテンコールの、やりたくないけどいちおうやってます的なお辞儀が印象的だった。こないだウィーンで観た作品のセネガル出身ダンサーの態度もそうだったけど、こういう、黒人から白人への挑発というのはヨーロッパの各劇場では頻繁に行われていることなんだろうか。仮にそうだとして、それを、ヨーロッパの劇場文化における圧倒的マジョリティである白人観客たちはどのように受け止めているのだろうか。それはそれで一種の贖罪(White Guilty)を媒介とした共犯関係ということにはならないのだろうか。
……それはさておき、英語での上演(イタリア語字幕)だったこともあって、やはり英語とは……と考えてしまう。今回の短いミラノ滞在で、あるお願いを英語でした時に「OK!」 と返されるけど実は全然伝わってないじゃん!ってことが何度かあった。「えっと、どういう意味ですか?」とちゃんと聞き返さずに「OK!」とその場しのぎで言っちゃう人が結構多いということなのか(わたし自身もやってしまうことがたぶんある)。そういう「わかったフリ」はむしろ知的エリート層のあいだで起きているようにも思う。英語で、わかったフリをしているけど、やっぱり第一言語と結びついている身体的バイブレーションがないので、それはどこか空疎な言葉になってしまっていて、だから伝わらない、ということがあるのだろうか。いっぽうで、じゃあ日本語同士だったら伝わるという話でもないんだけど。とりあえずそのような困難をミラノで何度か感じた、ということは日記に残しておきたい。
3日連続で、チャイナタウンの同じ食堂へ。実里さんはちょっと別のところも冒険したかったみたいだけど、わたしはルーティンでもいいかなという気持ちに。今は安心して安くて美味しい食事にありつけることのほうが大事だ。夫婦のように見える2人だけで切り盛りしているこの店は、地味で簡素な作りということもあってか、観光客っぽい人はほとんどおらず、パオロ・サルピ通りで騒ぎたいけどそんなに裕福なわけではなさそうな若者たちや、界隈の中華系の人たちの胃袋を満たすために存在しているようだ。さすがに3日連続となると顔も覚えられている。彼らは広州から来たらしい。みんな旅をしているよね、っていうか人生は旅だよね……という、言葉にすると安っぽくなるけど実際そうだよな、という感慨がやってくる。別のテーブルで、若い白人女性が、スプーンとフォークで頑張って拉麺を食べている。21世紀になってもうすぐ四半世紀が経つけれど、いまだにこういう文化的な差異が残っていることに、むしろ、希望を感じる。地球は丸い。でも平べったくはない。そして、遠くに行くことは簡単じゃない。でも、不可能でもない。