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藤原ちからの欧州滞在記2024 Day 49

金曜日。朝はJonas Ørenのレクチャー。実はまだ疲れも残っているしゆっくり眠ろうと思っていたら、陽平さんからメッセージがあり、ゆうべ挨拶した芸術監督のトービョルンさん(Thorbjørn Gabrielsen)からの伝言で、このトークはぜひオススメとのこと。それなら、と行ってみることにしたのだった。行ってよかった……トービョルンさんありがとう。Jonasはみずからのクィアとしてのアイデンティティを軸に、身体とそこに付与されている社会的コード(ピエール・ブルデューふうに言えばハビトゥス)を問題化している。わたしの知る中ではアイサ・ホクソンの関心領域に近いと思う。明日の夜にパフォーマンスがあるとのことなので、その足でフェスティバルオフィスに行ってチケットを購入。やっぱりチケット買えるオフィスがあるのは助かるなあ……。働いてる人も、いわゆるスタッフっていうより友達みたいな感じでフランクに接してくれるのがありがたい。
 
12時からMicaela Kühn、Maxwell McCarthy、Alfredo Zinolaによる『Living Room Sessions / Stories about Kinship and Biodiversity with Punctures』。ぜひオススメするわ、とこれまた陽平さんの友人エイミーから教えてもらって、当日券で参加してみることにしたのだ。土に触るワークショップ/プロジェクト。最後は誰かとペアになって、土に触りながら話をする。わたしのお相手マリさんはオスロ近郊で元庭師をしていた舞台美術家で、庭の記憶や、Norwegian Wood(ノルウェイの森)、そこから村上春樹の話など。ホストのミカエラとマックスウェルはとてもオープンな人たちで、コーヒーを飲みながら、トリノ近郊の村に畑をつくった話など教えてくれる。まったりした時間が流れる。


いったん宿に戻って休憩。19時からJonathan IbsenとBjørk-Mynte Paulseによる『EGIS』のワークインプログレス。ヨナタンはユトレヒトのSpringフェスティバルにも野外劇で参加していて、そこで実里さんはすでに親しくなっていた。オスロの空港でもたまたまこのふたりに会って、なんとなくご縁を感じる。パフォーマンスは上半身裸のふたりが水をお互いの口に流し込んだり噴き出したりするもので、ラストのアダムとイヴっぽい映像も含めて、異性愛だとするとなぜそのふたりの愛を見せられなければならないのかとなりそうだけど、ふたりのジェンダーアイデンティティを考えるとその意味も大きく変わってくる。裸体という点でも、水を使っている点においても、日本でそのまま上演するのはまず難しいだろう。でもその日本の規則って何なんだろう……とあらためて思う。そういう細かい規則によって、日本人は「日本人」という枠の中に閉じ込められているのかもしれない。

20時からはCompagnie S'appelle Reviens/Alice Laloyとノールランド人形劇場(Figurteatret i Nordland)の共同製作による『Pinocchio (live) #3』。こんな傑作をこんな間近でたった150クローネ(約15ユーロ)で観れるなんて……。冒頭で元気いっぱいの子供たちがパペットと化していく。そのプロセスがものすごく面白い。ある意味ではディストピアでもあり、幼児虐待のようにも見えるそれは、現代社会の写し鏡のようでもあるけれど、大人役と子供役とのあいだに信頼関係が存在することが見える(Alice Laloyによる演出は確かにそれを見せている)のが、この作品の「救い」になっている。
 
その劇場のすぐ外が、金・土の夜に開催されるフェスティバル・クラブの会場になっている。ビール1本が110クローネで、ここに来る船の中と同じ値段だし、なんなら観劇代とほとんど変わらない高さに驚くけれど、まあしょうがないか……。明日は朝からどうしても聴きたいトークがあるから、今夜のところはあまり深追いせず、軽く飲んで少しだけ社交して帰ることに。


帰り道、陽平さんがだいぶフラストレーションを溜めているようで、その話を聞く。というのも彼がこのフェスティバルで参加しているワークショップ・プログラムにおいて、ファシリテーターであるドラマトゥルクの人のやり方が、どうにも腑に落ちず、呑み込めないらしい。もしかしたら明日、そのことについて公的に批判をしてから離脱することも辞さない、と彼は仄めかしている。わたしはそのドラマトゥルクの人のトークも聞いたし直接少し話もしたから、なるほど、陽平さんが苛立ちを隠しきれないのも無理はないかもな、と感じつつ、それに関連して少し思い出したことがあった。わたしが批評家をしていた頃、つまり言葉を専門にする仕事をしていた頃、日本人のダンサーやミュージシャンの中には、わたしが批評家であるというだけで食ってかかってくるというか、馬鹿にしたような態度をとる人が(今思い出されるのは2人だけとごく少数だったけど)いた。大抵そういうのはコンプレックスの裏返しでしかないから、ふうん……という感じで、極端な例としてやり過ごしたけど、そこまで酷くはないにしても、ダンサーの中にはもしかしたら言葉を操る人間に対して不信感を抱いている人たちが少なからずいるのかもな、と感じることは何度かあった。陽平さんの今夜の物言いにもその匂いを少し感じたので、気持ちはわからなくもないけど、ファシリテーターの彼はあくまで特殊なケースだから、それを一般論化して「言葉を使う人間は信用できない」とジャッジしてしまうことにはわたしは同意できないな、とお伝えする。陽平さんも、なるほどそれは確かにそうですね、とそこについては呑み込んでくれた。でも実際はそう単純な話でもないのだろう、とも思う。彼の苛立ちの背景には、もっと複雑な、すぐには言語化できないいろんな理由があるのだろう、と感じた。それはなにゆえに彼が日本を離れてノルウェーに来たのか、そしてなにゆえにベルゲンという都市を離れてこの北極圏へと移り住んだのか、ということとも繋がっているのかもしれなかった。

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