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自分を守るということ

私は今年度をもって、在籍している大学院を休学し来年度から保育所に就職をする。

これは苦渋の決断であった。

修士論文の先行研究にあたる論文ですらGOサインが出せない、と言われた瞬間から自分の中の“大学院で論文を書くこと”に対する執着の糸のようなものが切れたような気がする。

切れるに至るまでに様々な経緯がある。

それは指導教諭の1年間の在外研究、コロナ禍、そして幼稚園実習が重なったことが休学を決断した主な理由だ。1つずつ説明していく。

まずは指導教諭の1年間の在外研究。指導教諭が不在することにより万全な指導が約1年近くも受けることができなかった。これまで週に1回は進捗状況を報告してきていたが、それがなくなってしまったため、どのように進めていけば良いのか、この進め方で良いのかなど、正解はないとはわかりつつも正解を探しながら前に進むことができない状況が続いたことが論文を書くことに対するモチベーションを高く保たせることができなかった原因に挙げられる。

次には、コロナ禍。今年一年はこの話題に尽きるのではないだろうか。コロナ禍の影響、もしくはコロナ禍から来るストレスの影響で多くの著名人がこの世を去った。これまで生きてきた中でこれほどまでに「死」というものを身近に感じることはなかった。普段の生活を送ることが死と隣り合わせであると感じることなどこれまで一度もなかった。元気に毎日を送ることができることがどれほど特別なことであったのかということを身に染みて感じることが多くなった。普段の生活を送ることですら大変なのにもかかわらず、自分自身の精神を削いでまで論文を書く必要が一体どこにあるのか、と毎日考えるようになった。今の論文を書くことで自分はどの程度満たされるのか、このことは次には実生活にどのように繋がってくるのだろうかということを考えるようになった。そう思うと論文を書くことの意義が自分の中で薄れてきたのだ。

そして追い討ちをかけたのが幼稚園実習である。私は26歳にして、幼稚園実習をこの9月下旬から10月中旬にかけてさせていただいた。その実習の中での行ってきたことはどれも新鮮に感じられ、辛さすら薄れてしまうほどの楽しさを感じることができた。ここで「私は論文を書く側の理論家になるにはまだ経験がなさすぎる、論文を書くことよりも現場に出て子どもたちの成長に一番近くで寄り添いながら共に喜び合うことの方が大切なんだ」という考えが固まったのである。

最後のとどめは、保育所からのリクルートである。私の子どもと関わる際の姿勢でや考え方であったり、児童養護施設に勤めているということなど様々なことを加味してのリクルートであった。現場に出たい強く願っていた最中でのリクルート出会ったためすぐに返事をしたかったが、そう簡単に決断できる内容でないことはわかっていたため、3週間ほど時間をいただき、周りのいろいろな人に相談をした後に保育所で働く決断をした。

この数ヶ月の出来事から何が言いたいかというと、「自分を守ることができるのは自分しかいない」ということである。精神を削ぎながら、救急車で運ばれたりと、体調を崩しながら論文を書くことが自分らしく生きていくことにつながるのか、人間らしく生きていくことにつながるのか。そんなことを考えることが多くなった。

大学院で論文を書き続けること、研究の道に進むということは自分が生きていくことができる場所ではなかったんだろうと2年半の歳月をかけてようやく実感することができた。と同時に、僕は現場指向の人間なんだというポジティブなことも知ることができた。子どもたちと関わっている僕自身が今一番好きである、そう感じたのである。

もしかしたら今日死ぬかもしれない。そんなことを1年前は思わなかったが、今はそうではない。「死」というものが今では近いものとして感じられるようになったのである。

このような状況下で、自分自身に過度にストレスがかかることをすることに何のメリットがあるのだろうか。少しでもストレスがかからない場所に自分自身を連れ出さないといけない。心地いいと思うことができる場所に連れ出さないといけない。それを唯一することができるのは自分自身なのだ。誰もやってくれない。

自分らしくあるためにどのような選択をするのか。年齢なんて考えてられない。その選択をすることである程度の生活を基盤を作ることができるのであれば、何の問題もない。現実的なのか否かは誰にもわからない。今のことはわかっていても未来のことなんて誰がわかるのか。そうであるならば、その時をめいいっぱい生きようではないか。複雑な人間関係なんか気にも留めず、自分自身と関わってくれる人にはうんと優しく接したり、好きな人には「好き」と伝えたり、美味しいものを食べた時には「美味しい」、楽しい時には「楽しい」と、その時、その時に抱いた感情を大切にしていこう。

人間はそんなに脆い存在ではないと願いたいが、今年1年でその願いは儚くも散った。人間は簡単に壊れてしまう、とても繊細な存在なんだ。

今年1年で、これまで常識であると言われていたようなことが尽く覆されていった。もはや常識なんてものは存在しない、「普通」なんて言葉ももはや存在しないと思っている。そんな時代で僕たちは生きていこうとしている。

自分を守ることができるのは自分自身だ。

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