わかっちゃない男と初恋サイダー(一カラ)


こわい、というのは、まあそもそも実の弟、一卵性の六つ子の六分の一の片割れ(という表現はそもそもおかしいが、それ以外に該当するものがないので)に抱くにはおかしい感情だと、重々承知のうえだがそれにしても。おれは弟の一松が怖かった。だってあいつ、なに考えてるかわからないし、おれのこと嫌いみたいだし。人付き合いが苦手な厭世家で、斜に構えて世の中を見るその物腰は、正直言えば憧れる。クールじゃないか、かっこいいと思う。だからいつだったか兄弟がみんな一松のことを「なにしでかすかわからない」とかなんの言ってたときも、おれは違うぜ、というポーズを取ったのに返ってきたのは拒絶である。正直なんで? って思った。で、からっぽの脳みそなりに結論をだして見て、あいつはおれのことが嫌いなんだなと察したのだ。


じっと見つめられているような感覚に、せっかく目をつぶったのにぱちりと開いた。薄暗い部屋の壁にかかった時計の針は真夜中を示していて、明日早いんだよと苛立ち混じりの声色でチョロ松が電気を消したのは記憶に新しい。おれも夜ずっと起きていられるような体質ではなく、睡眠欲に従って寝ようと思ったのだがそうできない理由があった。
ああ、まただ。
普段おれは仰向けに―――つまり天井を向いて寝ている。右隣には末っ子のトド松が、そして左隣にはくだんの一松が寝ているので、どっちを向いて寝るにしても憚られる。いや、単に顔を向ける程度ならいいのだ。眠っているのだから大抵は目を瞑っているし、顔が正面にあるのがいやなら、トド松にしろ一松にしろ顔をおれと反対側に向ければ済む話なのだから。おれはそういう気遣いとは無縁に、たんに仰向けに寝るのが一番しっくりくるのでそうして寝ているが。特にふたりの顔がこちらを向いていようがなかろうが、今までは気にもとめてなかったのである。そう、今までは。一松がこちらを向くようになるまでは。
それがいつごろからはじまったのかはもうほとんど覚えていない。視線を感じるようになって、え? なにこれ? こわい、と目を開けることすらままならず、仰向けのまま、ぴしりと硬直して、その視線がやむのをじっと待つか、自分が寝入ることでやり過ごすしかない。朝になってしまえば視線もないのだ。そう、視線。横から感じるのは異様な存在感を放つ痛々しいまでのオーラである。左隣から感じると言えばもうその視線の主は一人しかいなくなるわけだ。つまり一松。
先にも述べたように、こちらを向いて寝るぐらいならまだいいのだ。目を瞑っているわけだから視線もクソもない。だがおれが視線に耐えかねて、恐る恐る薄目を開いて一松のほうを確認してみたら、やつは見ているどころかガン見していた。目線キープだぜマイブラザーとでも言うのか。こわっ。ふつうにこわっ。瞬きぐらいはしようぜ、目赤くなってるよ。さすがに心配だわ。次の日起きたら目薬あげようかなとか思ったけど、気づいてますって言ってるようなものだ、それでは。何考えてるかわからない弟の身を案じるのも大事だが、自分の身を案じることも覚えようとこの間おそ松兄さんが夢の中でぼんやりアドバイスしていたし。
『いいかカラ松、からからからっぽカラ松くん。きみの弟でありおれの弟でもある一松くんは危険な男だ』
まぶたの裏でそのとき見た夢の内容が浮かんだ。兄さんは困ったような、それでも神妙そうな顔をしていた。
『危険な男? いいや一松はおれの、兄さんの弟だ』
『ああそうだよ? それを踏まえての話だって。いいかカラ松、お前さんの頭はどうせからっぽだ。なんの責任も根拠もなく信じてるなんていうのは簡単だろう。一松はお前が嫌いだからお前に怒ったんじゃないぞ。お前の無責任さに怒ったんだ』
『そうか……』
『夢の中で兄ちゃんに言われたことをいちいち鵜呑みにできるからっぽカラ松くんや』
『いやでもこれ夢だろ。兄さんは兄さんの皮をかぶってるけど結局この兄さんはおれの深層心理が作り出した幻想でつまり、』
おれはあいつであいつはおれ

「(一松は危険な男……)」
薄目をあけて、天井を見た。ぼんやり薄暗い部屋の中で、しかも暗闇に目は慣れてない。しみを数えることさえできず、突き刺さるような弟の視線から逃れるように、おれはまた目を閉じた。今度こそ眠りに入ろう、そう思って。
じくじく刺すような視線のとげは、まだ止むことはなくて。言いたいことがあるなら言ってくれればいいのに、とおれは思う。そんなにおれの隣がいやなら、今度誰か、おそ松あたりと変わってもらおうかな……。
そもそもおれに、「どうしてこっち見るんだ」と聞けるような甲斐性があればよかったんだろうなぁ。


目が覚めたら時計の針は十二という数字をゆうに超えていた。ニートにしてもこれはひどい寝坊である。元来寝起きスッキリなタイプのおれはのっそりと体を起こして、両隣に誰もいないことにああとため息をついた。横に広い布団の上でぐうすか寝ぼけていたのはおれだけだったのだ。ミザリー。レ・ミゼラブル。ガッデム、と頭を抱えた。六つ子ルールというものが松野家には存在しており、その中のひとつに布団を畳むのはその日最後まで布団の中にいた人間、というのがある。おれは前述した通り寝起きスッキリマンなのでそのような役を負うことはほとんどあり得なかった。大抵遅くまでちんたら寝ぼけてるおそ松かチョロ松か一松がやるのだが、今日は連日おれを苛む一松のトゲの視線のせいで寝不足だったのだろう、おれが寝過ごしたせいでその三人はお役目から外れたというわけだ。無駄に横に長く重い布団を畳んで押入れに仕舞いながら、今日だけだぞとこころの中で呟く。
部屋着のひとつになりつつあるツナギに着替えて、ほとんど寝癖のついていない髪をそれでも一応整えて、これから飯を食べるのになんの意味があるのかわからない歯磨きを済ませてから誰の気配も感じない居間を通り、台所へ足を運んだ。
松野家ルールそのいち、母は朝ごはんは作るが、昼飯はノータッチである。六人も食べ盛りを、それも毎日三食飯の面倒を見る気は母にはないようである。そして我が家では基本的に朝ごはんの残りなんて存在しない。たとえ起きれずに食いっぱぐれがでたとしても、その分のごはんは誰かの腹の中である。昼飯は自分で外で食べてくるか、母親が常備しておいてくれているカップ麺、インスタント麺等を食べたり、冷蔵庫の中から材料を見繕って適当に作るしかない。前者はともかくとして、後者を実践できるような男はこの家にはいない。
もちろんおれもそのうちのひとりである。
が。
「ラーメンあきた」
昨日も食ったし。一昨日も確かラーメンだ。適当に野菜炒めをつくってそれを上に乗っけてプチ贅沢気分も味わいはしたがそれでも飽きる。またまるちゃん正麺かよって気分。
確か冷蔵庫の中に焼きそばがあったはず、と開けばビンゴォ~。生麺の焼きそば、ひと袋に三食分入って九十円のお買得商品がそこにあった。バリィ、と封を開けてふた袋取り、残ったひと袋は元の位置にしまう。ついでに具になりそうなものも物色したが、野菜室にもろくなものはないし、生肉はといえば今日の夕飯に使うであろう豚バラ肉で。これに手をつけることはさすがに憚られた。ひとりがちょこっともらうだけなら問題はないんだ、それがかける六だから問題なのだ。せめて、ともやし先輩の影を探すがもちろん姿は見えない。昨日の夜食べたばかりだしな。
フライパンは大きいサイズのものしかなく、これを汚すのはさすがに憚られたので、底の浅めな鍋を取り出した。少なめに水をいれて火にかける。普通なら油をしいて具をいためて麺と少しの水投入で作るんだろうが、それをやったら鍋に焦げがつく。焦げがつくと洗わなければいけない。洗い物は面倒だ。やりたくない。ゆえにお湯で麺をほぐすという小心者の料理をするのである。仕方ない、誰だって洗い物は嫌いだ。
ほんとに少量なのですぐに湧き、さっと麺を投入した。ふた袋分である。腹は減るし具がないから麺大量で腹を満たすしかないのだ。さっさと菜箸で麺をほぐしてお湯がすべて蒸発したのを見計らって火を止める。皿に麺を移し替えしたころにようやく粉末のソースをかけてないことに気づいた。ふた袋分のそれをさらさらっとかけてかき回し、ようやく焼きそばの色に仕上がったそれを見ておれは満足げに頷く。ついでに青色の自分の茶碗に白米を盛った。炭水化物最高。
「おっ、カラ松~うまそうなもん食ってんじゃん~」
「おそ松」
ひょうひょうとした声に、顔をあげる。片手に焼きそばの皿と、もう片方に白米を持って。「作ったの?」「フ……おれにかかればこの程度のこと……。いずれ現れるカラ松girlのためにも手料理のひとつやふたつ作れないでは」「具なし焼きそばが手料理のうちに入るかっつーの」
まあそのとおりであるが。
「冷蔵庫にまだあるぞ。食いたかったら自分で作れ」
台所の入口に突っ立ってるおそ松を横切り、おれは居間へ向かった。
「いや外で食ってきたから」
「ふうん」
よくそんな金があったな、と思った。ちゃぶ台に皿を置いて、よっこいと腰を下ろす。おれの後ろをついてきていたおそ松もならっておれの正面に座った。
「一口くれよ」
「これはおれのみに許された食事……」
「いいじゃん誰かが食ってるのみると食いたくなるんだよ」
「……」
まあいいか一口ぐらい。なんせ焼きそばふた袋分だ。箸で適量とってああーんとだらしなく口を開けるおそ松の口の中に焼きそばを放りこむ。二三咀嚼しておそ松は微妙な顔をした。
「あんまうまくねえな」
「母さんがつくる焼きそばが一番うまいんだよ」
「カラ松girlが逃げるぞ、」
「おれが食べるやつなんだからいいんだよ」
まさか鍋焦がすのがいやでお湯でしとしと作ったとは言えない。ソースの濃い味を堪能しつつ白米を口に運ぶ。おそ松がおれがちまちま食べてるのをしばらく見ていたが、「ああ~~~~~~」と声をあげてごろんと横になってからは静かになった。退屈で死にそうなんだな、多分。テレビでも付けようかとリモコンの影を探したが手の届く位置には見つからなかった。そのへんに置いてそのままだと母さんに叱られるだろうに、誰が置きっぱなしにしたんだか。
焼きそばの量が三分の二ほど減った頃、おそ松が「なあ」と声をかけてきた。寝転がったまま。「どうした兄さん」
「カラオケ行かね」
「……おれはこのあとカラ松girlsを待つという重大な使命がな」
「いねぇ~~~よォ~~~そんなもん~~~~~」
「そもそも金ない」
「兄ちゃん奢るからさぁ」
「チョロ松誘えばいいだろ」
「やだよあいつモー娘。しか歌わねえもん」
おれだって尾崎しか歌わねえぞ。
「だいたいなんでカラオケ」
「なんとなく……」
「兄さんとカラオケ行きたくないなぁ」
「こんなときだけ兄さんとか言うな」
こいつとカラオケに行きたくないのは気持ちよく歌ってるとき邪魔されるからだったり、演奏停止ボタン押されたりとかも当たり前で、そんなのが何度も続けば誰もおそ松とカラオケには行きたがらなくなった。さすがのおれもこの行動を擁護できない。そっちは暇なんだろうが、おれは暇ではないのである。
食べ終わった食器を重ねて、台所まで持っていく。流しに置いて水につけておけば母が洗ってくれるだろう。クズニートは台所まで汚れものを持ってきただけでも褒められるのだからほんとうに実家暮らしは最高~~~。

居間でぐうたらを続ける兄を横目に見て、これ以上絡まれたらめんどくさそうだと見切りをつける。二階でごろごろしてよう、となるたけ音をたてずに階段を上った。誰もいない部屋はいつもより少しだけ広く感じる。窓際の日があたるところにごろんと寝転がると、食べたばかりだからか睡魔が襲ってきた。イタズラな妖精さんだぜ。
座布団を折り曲げて枕にして、足をくの字に曲げてぼおっと天井を見上げた。仰向けの体勢である。硬い畳の感触を背中に感じて、これこのまま昼寝したら起き抜けつらいだろうなぁとか考えた。
聞けばよかった、とそのとき思った。なにをって、おそ松に、一松のこと。あいつの奇行を。夢の中の自分自身がかぶったおそ松の仮面に問いかけるんじゃなくて、現実の兄に。あの人はあの人で聡いし、鋭いから、きっと打開策を見つけてくれたはずだ。お前はこうしたらいいよとか、じゃあおれが一松になんとか言ってみるよ、とか。そこまで甲斐甲斐しく動いてくれるにはもうちょっと機嫌が上向きじゃなきゃだめか。
六人も兄弟がいれば二人きりになる機会なんてほんとうに少ない。この機を逃すべきではないとおれの頭の奥でなにかが警鐘を鳴らすが、一度横になってしまうと起き上がりたくない、このまま寝ていたいという欲望が首をもたげるし、おれは基本的に欲望に忠実だった。

『カラ松』
呼ばれた声にどきりと心臓を高鳴らせる。え、と正面を見た。いるのはおれと同じ顔である。おれ以外のだれか、五人のうちの一人。無表情気味だけどそれでも柔らかい印象の表情に見覚えはほとんどない。いや、ちがう、これ、一松だ。
『一松』
おれが名前を呼べば、一松は一層嬉しそうにはにかんだ。あ、いい子の頃の一松だ。今みたいに、どうにかなっちゃう前の、一松。真面目で、実直で、素直で、いい子の、一松。なんだったら、この頃はおれのほうがだめなやつだった。
『まるで今は自分のほうがマシみたいな言い方だね』
『えっ』
『いいよ気にしないで。まさしくそのとおりだし』
にこ、と笑って一松は、おれの手をそっと取った。傷ひとつ見当たらない、でも少しカサついた、男子の手。おれも同じだけど。いま、心読まれたんだよな? でも夢だし、そういうものなのかな。
そうか、夢だから、こうしておれに笑ったり、おれの失態を気にするなと言ってくれる一松はどこにもいないんだ。
『どうしてお前はおれの夢に現れたんだ?』
『カラ松がぼくとの関係に不安を抱いたからだよ』
『……』
それはまあ、もっともな話だった。
『心の中で整理をつけるためにぼくを呼んだんだね。でも今のぼくはカラ松に攻撃的だから、まだマシだった頃のぼくにしたんだ』
『深層心理のおれ賢い』
『クズだよただの』
鋭い。そのとおりだ。夢の中であっても、一松がおれに危害を加えないと言い切れなくて、そもそもあいつときちんと目を合わせて対話することが怖くて、逃げた結果、今の一松を否定するようなことをやってる。おれってかなり最低だ。最低で救えないクズだ。
『ぼくのこともそう思う?』
『そうって?』
一松は寂しそうに笑った。
『お前のことをクズで最低で救えないって? 思ったことがあると思うか? おれは一松のことをすごいやつだと思ったぞ。世界を否定して一人で生きていこうとなにもかもを拒絶するなんてふつうはできないことなんだ。誰も彼もを嫌って、愛することを放棄して、斜に構えて、世界を呪って! かっこいいじゃないか、そんなの』
言い切ると、一松は『はは、』と笑った。乾いた笑いだった。細められた目は、黒目は、不思議と濁っていた。笑ってるならいいのかなとなんとなく思ったが、この笑みは、なんとなく見覚えがあった。なにもかも諦めたような笑い方。
『知ってた。お前、ほんとうにクズ』
『うん』
『そんなカラ松が大嫌いだった』
夢の中で、結局幻想の中にすぎない一松にそう言われるのは、それでもなかなか心臓にくるものがあったが、夢の中じゃあ痛むものもない。だからおれはにへらっと笑って、「そっかぁ」と頷いた。うん、おれクズ。知ってる。軽蔑されても仕方ないのだ。
『お前がそうなら、現実の一松もおれが嫌いなんだろうなぁ』
『さぁね。おれはあいつじゃないからなんとも言えないよ。なあカラ松、これってすごい不毛なことなんだよ。自問自答に等しい。というかまんまそれだ。お前は今、鏡に向かって話しかけてるに過ぎないんだよ』


ぱちり、と目を覚ました。結構寝ていたのか、電気の灯らない部屋は暗闇に包まれていて、静寂と孤独……まさしくおれにぴったりだなと相変わらず寝起きスッキリの頭で考えつつ、あー腰が痛いと起き上がった。暗闇の中がんばって時計をみると六時を過ぎた頃だった。ほんとうによく眠っていたのだなぁ。そんなに寝不足だったのか。
夢の中に出てきた弟の姿を思い出してこれはそろそろダメだな、と思う。夢の中でまで弟に気を使わせてしまったとか、どーしようもないことでいい加減悩んでるんだなとか、まだふつうに素直だった頃の一松可愛かったなとか、ぐるぐるぐるぐるいろんな考えが頭の中を駆け巡った。
現実の一松と向き合うことを恐れて、夢の中でバカみたいに人生相談しまくった結果が自己嫌悪。おそ松だけならともかく、弟の一松、それも少し幼い外見の弟が出てくるとなるとなんかもう、いたたまれない。自分が情けなくて情けなくてしょうがなくなる。
あいつはおれのことが嫌いなのだと結論づけたのはそうすることであいつと関わることをやめようと思ったからだ。だけどあいつはあれからもおれによくつっかかってきた。何が不満なのかわからないから、荒波立てないようにおれが身を縮ませて生きていてもあいつには関係なかった。最近は名前すら呼ばれない、呼ばれてクソ松である。兄ちゃんは泣きそうだ。この間はグラサンをおもちゃにされて割られたし。夢の中でおそ松に相談したところ『いじめっ子に効く薬は無視だ』と言われたのでそれを実践している。
あ。
一松が夜中におれに妙な視線をよこすようになったのって、おれが一松のしてくることを無視しだしてからじゃないだろうか。
口に手をあてて、おれってもしかして名探偵かとそういう意味でのショックも含めて、ショック。一松のこと、追い詰めてたの、おれだ、おれが原因だ。なのに、なんにも知らないで、一松のことこわいとか言って、おれ、ほんとうに最低だ……。
『なんの責任も根拠もなく信じてるなんていうのは簡単だろう。一松はお前が嫌いだからお前に怒ったんじゃないぞ。お前の無責任さに怒ったんだ』
案外、夢の中のおれの深層心理は、その答えをついていたのだ。鏡に向かって話しかけるのも、悪いもんじゃあなかったんだな。
「兄さん、兄さん! 起きた?」
「ん、ああ」
ひょこ、と入口から顔を覗かせて、十四松が「今からおでん食いに行くって!」とおれに声をかけた。そうか、と頷き立ち上がる。ツナギのままだが、それでもいいか。十四松も同じ格好だし、どうせ行くのはチビ太の屋台だ。着飾る必要もなかろう。
「あれ、兄さん! いつものイッタイサングラスしてないの?」
「イタ……、ああ、あれは……」
懐に手を伸ばしかけて、ふ、と止める。いつもはおれの魅力的すぎる瞳を覆い隠し、カラ松girlsの心臓を守ための障壁であり、強すぎる光から暗闇に生きる静寂と孤独の化身たるおれを守るためのトゥーウェイグラサンで、外が闇に覆い尽くされていようとそれを身に付けることには変わりない、のだが。
「……おれは今まで、このグラサンをすることによって光と向き合うことを恐れていたんだ」
「うん今夜中だし電気もついてないからひかりないけどね!」
「今日のおれはそんな過去の臆病なおれにグッド・バイだぜ……!」
「おおー! カラ松にいさん、ニュータイプすか?! 進化すか?! Bボタン連打すかーっ?!」
「いや進化キャンセルはやめてくれ」
十四松のあとに続いて部屋を出ると、十四松がおれを振り返り、「一松にいさんと仲直りするの?」と言った。問いかける、じゃなくて、本当に言う、って感じの言い方だった。「ああ」肯けば、「よかったっすー!!」と十四松は一目散に階段を駆け下りていった。


なんだぁおれは十四松さえも不安にさせていたのだなぁとチビ太のおでん屋に腰掛けてチビチビ水を飲みながら考える。左隣はチョロ松で、最初はおそ松をたしなめたり絡み酒されたりわいのわいのしてたのをいつの間にか完全に深酒モードに入って今度は逆におそ松に絡み酒をしている。そして右隣が一松だった。おれはなにも言わないのに、一松はそれが当然であるというふうにおれの横に腰掛けた。おれのことが嫌いなら、こんなに近いところにいなければいいのに、と思うが、一松は自分の隣に座っている十四松となにやら話しているのでおれのことは視界に入ってないようだった。それはそれで、ほっ。
チョロ松の絡み酒に付き合わされるのはゴメンだし、かといって一人で飲むのも嫌だ(酒は飲んでないけど)。ふとおそ松のその隣をみると、おれと同じようにトド松が、つまらなそうにして酒を飲んでいた。おれの視線に気付いたのか「もぉカラ松にいさんでいいや。こっちきてよ~、つまんない」と唇を尖らせた。しょ~がないなぁ~弟に言われたんならな~~。求められるとうれしいもんだと腰を浮かしてトド松のほうへ行こうとしたそのとき。ぐい、と腕をつかまれた。誰に?
「……一、松」
おどろいて一松を見た。青いツナギの袖に包まれたおれの腕を、一松の手が掴んでいる。どうしてそんなことを? 考えても答えは出ない。おれは今、トド松のほうへ行こうとしただけなのに、なんで一松がそれを止めるんだ? お前は今、十四松と仲良くくっちゃべってたじゃないか。
答えを聞こうにも、なんとも口に出せない。ただ一松を見た。あ、こいつ、酒飲んだんだな。一目見て悟る。顔は耳まで真っ赤だし、目はとろんとしてる。ろくに頭が働いてないんだ。弱いから。
「一松、どうした、具合悪いのか」
「……」
「水飲むか」
コップを差し出しても、一松は受け取ろうともしないし、ただおれの腕をぎゅうと、痛いぐらい掴んで、なにも言わずにじっとしていた。目はどこかちがうところをみてるようで、おれをうつしていない。なんとなく、かわいそうだな、と思った。言いたいことはいっぱいあるんだろうけれど、そのどれを伝えていいか、わからないんだ。おれにはわかるよ、おれもいつだってそうだから。
「家帰るか? 歩けるか? おぶってこうか、」
「……あのときみたいに?」
かすれた声はあまりにか細くて今にも途切れてしまいそうで、縋るような声に「あのとき?」なんて空気も読まずに聞き返すことさえ憚られて、わけもわからずに「うん」と頷いてやる。
「怒ってんのかと思ったんだ」
「怒ってる?」
「あのときからずっと、なにをやってもなにも言ってくれないから」
気にしてたのか、ずっと。今まで。それは本当に、悪いことをしたなぁ。十四松はだから、「仲直り」と言ったのか。別に喧嘩じゃないんだ、おれが一方的に、ばかな勘違いをして、履き違えて、そんなことばかりやっていたから。
あのときとは、多分いろいろあるんだろうけど、おれが本格的に一松のことを無視しだしたときのことだ。そう確信した。後ろめたいことがひとつ消えたみたいに、すーっと心が軽くなる。一松のことを理解してやれた気がした。
「兄さん、おれ、一松おぶって先に帰るわ」
「ん? おおお? おう」
宣言して、言うとおり一松に背を向けて、しゃがみこむ。「ほら」と声をかけると、ややあって、一松がおれの背に体をあずけてくれた。かなり重いけど、この重さが不思議と嬉しさと比例するみたいだった。

おでん屋から離れて、おれと一松はしばらくなにも話さなかった。酒のはいった成人男性、しかも自分と体格がそう変わりない人間を背負うのは、簡単なことじゃない。でもおれ兄ちゃんだからなぁ。おそ松がいつだか言っていた、たま~に兄貴ヅラ見せるのって本当に気持ちいいよ、という言葉の意味が、なんとなくわかった気がする。いつもの三割増で弟が可愛く見えるのも本当だ。
「嫌われてなくてよかった」
口火を切ったのは一松だった。寝てたんじゃないのか、と少し驚いたけど、なによりも言った言葉の内容のほうに驚かされた。嫌いになんてなるもんか。そりゃ、ちょっと怖かったけど、何考えてるかわかんないし。でも嫌いになるなんてそんなそんな。
「それはこっちのセリフだ」
いつもだったら言えない軽口を叩いて、おれはひとり笑った。調子に乗るなよ、クソ松のくしえに、とか言われて、足蹴られたらどうしようと一瞬思ったけど、杞憂だった。一松は、「うん、ごめんね」と小さく誤ったのだ。あの、あの一松が。びっくりした。あれ、これおれの夢じゃないよね? と三回ぐらい確認したけど、もちろんおれは歩きながら寝る特技は持ち合わせていない。
「もういじめないよ、素直になるよ、ほんとうのこと言うよ……ごめんねカラ松、ごめんね、ごめんね」
「一松……」
「無視しないで、おれのことちゃんと見てよ、ごめんね、うう」
「吐きそうなのか?」
「うるさい」
最後のうるさいは、ほんとに消え入りそうな声で、言葉で。大丈夫かなあと頭を撫でてやりたかったがさすがに無理だった。
なにがどういうメカニズムかは知らないが、お酒のはいった一松から、本音、らしきものを聞けたのは、素直にうれしい。へへ、と笑って、「一松」と名前を呼んでやる。
「寝るときな、お前のほう向いて寝てやるからな」
「……」
「はは、へへ、へへ……」
一松はそれきり黙って、頭をおれの肩にぐりぐり押し付けて、眠ってしまったかのように動かなくなった。ただ、ひとこと、「今日こそは、がんばる」と小さな声で、そんなことを言ったように聞こえたが、酔っ払いの言うことなので、気にするほうが無駄かと流した。

今日はいい夢が見れそうだ。悩みもなんだかんだで全部解決したし。こんないい夜はお月さんもお星さんもパーリーナイだろうなぁと夜空を見上げたが、空気の読めない空たちらしく、曇って星どころか月さえも見ることは叶わなかったのだった。



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