Wake Me Up (太刀来)




「太刀川おねがい」
 みいんみいんと、どこに残っていたのかわからない蝉がすこしだけ鳴く九月の始まり。夏の長期休暇は終わったのに、まだまだ夏は終わらないと言うような太陽の照り具合と体育教師の授業数の確認の間違いからもつれ込んだプール授業の直前のことだった。

 更衣室とプールサイドはコンクリートの壁で仕切られている。来馬に呼び止められたのは更衣室側の通路で、目先には消毒用のシャワーがあった。振り返り、来馬を見つめる太刀川を尻目に、同級生たちがその先へ進んでいく。夏休み明けで、ほとんどの生徒は日焼け跡が目立つ中、来馬だけは白い肌を保っていた。
 女子のスクール水着が画一的な紺色のものに対して、男子の水着はかなり自由度があった。ぴったり肌にはりつくタイプの水着を着ている男子はほとんどおらず、トランクスタイプの丈が長いものを履いている生徒がほとんどだった。来馬も太刀川も、その例に漏れていない。だからこそ来馬の異様さが目立った。細く肉付きのない体と日焼け知らずの肌を指して、白いアスパラガスと笑ったのは誰だったか。太刀川はそれを聞いて、言い得て妙だと思ったものだ。
 おねがいって、なんだ。無言で太刀川は来馬に問いかける。細い両腕を後ろでに隠す彼の背を上から覗き込むように顎を上げた。うつむきがちな来馬の、胡桃色のくせ毛が見える。す、と差し出されたのは太刀川にはなんだかよく分からないボトルだった。
「日焼け止め」
 言われて、「日焼け止め」と反復する。
「背中、塗って欲しいんだ。届かないから」
「ああ……そんなこと」
 ボトルを持ちながら、適当に頷く。了承を得られたので安心したのか、来馬はへにゃりと笑った。


 更衣室の扉の前に置かれた青色の、塗装が剥がれかけたベンチに来馬が太刀川に背を向けて座る。コンクリートの壁に寄せて置かれたベンチは、暗い影を落としていた。来馬の真白い肌が太陽から隠される。前かがみになり、いっそう骨の浮き出た来馬の背中を見下ろしながら、太刀川はボトルの蓋をベンチの上に置いた。
 塗るのを手伝えと言われても太刀川は生まれてこの方、日焼け止めクリームなんてものとは縁がなかったので勝手がよく分からない。ボトルを左手の手のひらの上に傾けて、中身を押し出すように容器の中頃を潰す。ボトルを蓋の隣に置き、ぶちゅり、と出たクリーム色のそれを指先ですくって、来馬の背中にちょんと付ける。
「ひゃあ」
「変な声出すな」
 牽制のつもりで、べちんと来馬の背を叩く。声変わりが始まってない、すこし高い声が平時以上に高くなっていた。すこしだけ心臓がびくんと跳ねたことは、内緒にしておく。
 本当にてきとうな所作でクリームを来馬の背中に塗っていく。言うほど広くもない背中なので数分もかからずに塗り終わった。こんなもんだろうとボトルの蓋を閉めて、「終わったぞ」と声をかける。立ち上がって来馬は「ありがとう」と礼を言った。日焼け止めを来馬に渡すと、仕舞ってくるから、先行ってていいよ、とコンクリートの壁の向こう側を指差す。ピー、と鳴った笛の音に、太刀川は「そうする」と返事をした。


 触れた来馬の背中は想像していた感触とほとんど変わりなかった。骨の浮き出た硬い背中、白い肌はその先が透けてみえるよう。仙髄、腰髄をなぞって胸髄に辿り付き、その先にあるのは頚髄。人差し指と中指をその首根っこに触れて「(ああ、)」太刀川は溜息をついたのだ。
 体育委員が前に立ち、並ぶ生徒を教師の代わりに見る。来馬はまだ、と声を出す前に、ととと、と軽い足音とともに来馬が現れた。それを見て、準備体操はじめ、とすこし間の抜けた声をあげた。二列、横に広がって並んでる体形で、太刀川は一番左の端っこ、来馬は右の端っこにいた。そちらをちらりと見遣って、浮き出るあばらと恐ろしく細い手足を見る。そういえば、日焼け止めって水に濡れても落ちねえのかな、と、そんなことをぼんやり考えた。




―――水。

 ぼちゃんという音とともに水の中に入る。思ったより冷たい水温にぎゃあぎゃあとはしゃぐ同級生の声の中に来馬のものはなかった。ピー、という笛の音が鳴って、「十秒息止めて水ん中もぐってみろ」という教師の声が続いて響く。えー、だのなんだの、文句を言う生徒を笑って体育教師は愉快そうに笑って、もう一度笛を吹いた。ばしゃん、ばしゃんと続けて水が跳ねる音がする。太刀川も息を大きく吸って、水の中に潜った。
 水中ゴーグルというのは全く便利な道具で、水の中でも視界がひらけるというのは思った以上に神秘的でかつ魅力的だった。ごぽり、と口から漏れた空気が水面に上がる。鼻をつまみつつそれを見上げて、太陽光に照らされてゆらゆら光る水に心躍らせた。
 水、が好きだった。水の中で息がつまるまでぼんやりしているだけのことが。酸欠になるのが気持ちよかったのかはよくわからない。
太刀川にとって、来馬は水のような男だった。コップに注がれたようなものではない。学校のプール、果てはどこまでも広がる海のような男だった。
「(水が好きで、来馬が水のような男なら、おれは来馬のことが好きなのだろうか……)」
 この場合の好きが、一体どのような種類のものかは太刀川にはわからない。そもそも、種類に分けることすら罪のように思われた。ごぽり、ごぽり。漏れ出す空気が水面に浮上する。普通に立ち上がっては、太刀川の背丈では水面から顔が出てしまうから、プールの底に足をつけて、身を屈めている。浮きそうになる体をつま先で支えてそっと目を閉じると、突然、二の腕をぐい、と引っ張られた。
 水滴のついた水中ゴーグル越しでは、水中ではよく見えても、外界では視界が遮られるだけだ。太刀川はゴーグルを取って、己の二の腕を掴んでいる細腕を見る。来馬の腕だ。
「もう十秒たってるよ」
 ピー、という笛の音が遠くから聞こえる。上がれ、の合図らしい。バカみたいに突っ立っている来馬と太刀川を置いて、同級生たちが皆プールサイドに上がっていく。
 怒られるかと思った。だから太刀川は、来馬がなにも言わずに自分の手を引いて、プールサイドまで引っ張っていくのを、されるがままに流される。怒られる? なんでそう思ったのだろう。だがなんとなく、太刀川は来馬がそういうことを許さない男のように思えたのだ。そういうこと。これは一種の自傷行為ではないのだろうか。
「来馬ぁ」
「なあに」
 ざぶんと波を立てて、プールサイドに上がる。顎から、腕から、足から、滴る水滴がぽたぽた地面に落ちていく。水中では感じなかった寒さが途端に太刀川を襲った。
「ごめんな」
「なにが」
 問いかける来馬の顔はきょとん、としている。本当になにが、と思っているのだろう。ぼんやりとした頭でそれを見つめて、太刀川ははあと息を吐いた。
「伝わらない謝罪なんてただの自己満足だ」
 拗ねてる、と来馬は太刀川を指して言った。拗ねてなんかない、と返すが、何を言っても無駄のように思われる。だって来馬は気にも留めてない。
「心配してくれると思っただけ」
 そう素直に心情を吐露すれば、来馬はきょとんと目を瞬き、それからくすくす忍び笑いを浮かべた。それに太刀川は少しだけムッとする。
「ひでえの」
「だって、たかだか十数秒、水の中に潜ってただけで、心配なんてしてらんないよ」
「してよ」
「そんなのいちいちしてたら、身が持たない」
 だってお前は忙しないやつだからね
 そう言って来馬はまた笑う。なんとなく太刀川は釈然としないが、来馬が言うならそうなのだろうと納得した。
「どうしてそんなこと言ったんだ?」
 来馬が問いかけて、太刀川は、ああ、とてきとうに相槌を打つ。同級生たちが次々とプールに潜り、アップとして二十五メートルを泳いでいくのを眺めつつ、のっそりと緩慢な動作で立ち上がって後ろに続いた。太刀川の前にはまだ六名ほどの男子が待機している。こうして来馬と会話をするだけの余裕は十分にあった。
「怒られんのかなって思っただけ」
「怒る? おれが? 先生じゃなくて?」
「そう、来馬が」
 なんで同級生の友達を怒らないといけないんだよ、と来馬は困ったように笑った。
 そういえば来馬が怒ったところを太刀川は見たことがなかった。怒る、というか、感情を顕にするところと言うのか。別にいつも無表情だとか、凄く冷静というわけでもないのに、不思議と来馬が激情を表に発散することは記憶の中でも一度もなかったはずだ。
 不思議な男、と太刀川は今更な感想を来馬に抱く。そのうち太刀川の前に男子はいなくなって、水に入った彼が足でプールの壁を蹴り泳ぎ始めたのを見て太刀川も水の中に入る。ピー、という笛の音を聞いて、同じように泳ぎ始めた。
「(ああ、そうだ)」
 クロール、息継ぎのために顔を少しだけ水面から浮かせながら、太刀川はひとつの結論に達した。
 来馬は水のような男だ。
 そして自分は、来馬とともにいて、息苦しいのだ。
 その息苦しさはまさしく、水の中で酸欠状態に陥ることと同じもので。だから来馬は水のような男だった。
 

 では来馬に対し湧き上がるこの感情の名前はなんだろう。焦燥にも似た、胸を焦がすこの感情は。
 恋と呼ぶには、まさしく、息苦しい。


 ▼


 あ、と来馬が声をあげた。なにか思い出したような声である。彼の白く骨の浮き出た赤褐色の箸は、太刀川が持ってきた肉じゃがのじゃがを掴んだまま彼の茶碗の上で静止していた。来馬の一人暮らしの、無駄に広いマンションの一室で、こうして夕飯を食べるのが太刀川の習慣になってもうだいぶ時間が経つ。
 来馬の部屋の中に所狭しと並べられているのはアクアリウムの水槽だった。全部実家から持ってきたものなのだと来馬は引越し初日に得意げに話していた。無論、それを部屋に搬入したのは来馬でも太刀川でも堤でも二宮でもなく、来馬の実家が雇った引越し業者であった。寝室は勿論、リビングと玄関を繋ぐ狭い廊下にさえ置いてある水槽には、太刀川が名前も知らないような魚が来馬の作り上げた小さな世界で小さな体をゆらゆらと動かし生きている。そして太刀川と来馬は、そんな魚たちに見守られながら飯を食らうのだ。
「どうした」
 もぐもぐ、と白米を咀嚼しながら問いかける。ぼんやり、どこか宙を泳いでいた来馬の視線が、は、と太刀川に向く。
「うん……ちょっと、中学生の頃のこと思い出してて」
「中学んときの?」
 太刀川が十四歳のときなので、逆算して六年前のことである。もう六年、いやその一年前からの付き合いだから、来馬と出会ってもう七年が経過したことになる。月日の流れとはあっという間だと漠然と太刀川は思った。
「九月にプールの授業があっただろ。あれでね……太刀川が十秒プールに潜って息止めるやつで、十秒以上ずっと沈んでるもんだから、おれが引っ張り上げたら、ふふ」
「ふふて」
「だって言う事に欠いて、『心配してくれると思った』なんて、」
 そんなこと言っただろうか。ふうんと相槌を打つが太刀川には全く記憶にないことだった。太刀川の記憶にあるのは、来馬のあの、骨の浮き出た背中に、日焼け止めクリームを塗ってやったことだけで。
「水の中で息止めるのって、気持ちいいよなぁ」
「なに、とつぜん」
「いや、お前がプールの話するから、ふと思い出して。おれ、水ん中でギリギリまで息止めんのが好きだったんだよ」
 へえ、と来馬は頷いて、中断していた食事を再開する。「酸欠状態って気持いいらしいね」そんな他愛のない言葉もつけて。
「水の中、気持ち良かったの?」
 じゃあ引き上げなければよかったな、と来馬は笑った。ごうんごうんと静かに響く、重いエンジンの作動音が、太刀川の耳の奥に届く。アクアリウムの水槽についているポンプの作動音だ。こぽこぽと気泡が水面に上がる音もそれに続く。水の中は、あのとき、プールの中に潜って見た世界は、ぼんやりぼやけてて薄暗い青の世界の中(プールに塗られたペンキの色だ)、太刀川は確かに胸を躍らせたのだ。神秘的とも言える光景を前にして、興奮していた。ごぽり、ごぽりと口や鼻から漏れ出る空気が、太刀川から酸素を奪う。それさえどこか心地よかったのだ。
「来馬に引き上げられなくたって、おれは一人で水の中から上がったさ」
 心外だ、と言いたげに太刀川が来馬に言う。そうだ、あの時来馬がいなくとも、なにも変わりはしなかった筈だ。ぼんやり頭の中に浮かぶ光景の中で太刀川は一人頷く。
「おれはギリギリのスリルを楽しんで、でもそれ以上に足を踏み入れたことはないんだから」
 言って、太刀川は自分と来馬の関係に名前がないことに今更気づかされた。窒息するまで、太刀川が水の中には潜らないのと同じように、太刀川は来馬と、ほんとうに深いところまでつながろうとはしていない。この意味はなんなのだろう。
「今日も泊まってくの?」
 来馬が問う。太刀川はもう何度も来馬の家に泊まっているし、なんなら太刀川用の布団や歯ブラシ、着替えが常備してあるほどだ。なんとなくすわりの悪い思いがして、太刀川は、
「寒いからさぁ、来馬のベッドで一緒に寝かしてよ」
 と、茶化すように言う。
 だが来馬はそんな太刀川を嗜めるように、少しだけ内微笑み、「だめ」と言うのだ。





「おれも一人でお布団敷けるようになったんだから」
 来馬は自分のベッドの脇に太刀川用の布団を敷きつつそう言った。太刀川がネット通販で購入して来馬宅に届くようにしたものだった。これがない内は来馬は家に泊めてくれなかったのである。別に家に他人を泊めるのが嫌な訳ではないらしく、こうして太刀川用の布団が家に来てからはむしろ、「今日は泊まらないの」「いつお泊りにくるの」と聞いてくるほどである。
 来馬の敷いた布団は皺がぴっしり伸ばされているしシーツも白いままだ。頻繁に使うこともないだろうと安物を買ったので、ぞんざいに扱われようが太刀川は気にも留めないのだが、まあどうせ手入れをしているのは来馬の家が雇っているお手伝いさんなので遠慮のえの字も出なかった。
「ふつうはできて当たり前のことなんだけどな」
「ええ?」
「まあ、来馬にしてはよくできたほうだろ」
 不満げな声をあげた来馬に、太刀川はふむとしたり顔で言う。寝間着代わりの高校時代のジャージは、卒業以来まったく着ていなくて、お泊り用に引っ張り出してきたものだった。反して来馬の寝間着は、予想通りの上下揃いのパジャマ。何度も見たし新鮮味はない。
「おれもね、随分自活できるようになった気がする」
 ベッドに腰掛けてそういう来馬だったが、自活できる人間はお手伝いさんなんか雇わないし、雇えないからこそ自活できるようになるのだと太刀川は思った。だが口にはしなかった。
「まあ、TKG作るのにたまご割れるようになったしな」
 ついて出たのは見当違いな言葉だった。
「あれもおいしいよね。明日の朝ごはんにしよっか」
 返ってきた言葉も、見当違いなそれである。そもそも来馬は、こうして一人暮らしを始めるまでTKG、卵かけご飯を食べたことがなかったらしい。存在は知っていたが、そうやって食べる人もいる、ぐらいの認識で、なんだかとってもみっともない行為に思えていたようで、太刀川が来馬の家にはじめて泊まって、朝ごはんにそれを食べたとき、まじまじと食べる様を見るものだから太刀川も食べにくいわなにやら恥ずかしいわでひと悶着あったのだ。その後太刀川の茶碗から一口拝借すると、お気に召したらしくこわごわとした手つきで卵を割った。力加減を誤ったらしいそれは、卵の殻が白米の山の上で黄身や白身のトッピングになっていたのを、太刀川は今でもよく覚えている。「明日はごはんに卵かける~」
「夜中に歌うなよ」
 ぼすんと来馬が横に倒れこむ。
「太刀川、電気けして」
 おれもう、寝っ転がっちゃったから。にへらと笑って言う来馬は、本当に呑気そうだと太刀川は思った。幸せそうな男。
「いつもそうしてたらいいのに」
 来馬のベッドのサイドテーブルに置いてある電気のリモコンのスイッチを押して、太刀川はぽつりと呟く。
「なにが?」
 問う来馬の声は暗闇から聞こえた。
「鈴鳴にいてもさ……、もうちょっとあいつらにわがまま言っても許されるんじゃないかなって」
「太刀川みたいに?」
「うん、おれみたいに」
「あはは」
 あははってなんだよ
「おれは太刀川じゃないし、鈴鳴の子たちも太刀川隊の子たちじゃないから、それは無理だよ」
 穏やかな声色に、太刀川はぐうと押し黙る。まったくそのとおりだと思ってしまうのだから、来馬の言葉はまるで宗教のように聞こえた。
 会話が途絶える。暗闇の中もぞりと来馬が太刀川に背を向けるように寝返りを打つのを、太刀川は感じた。来馬が寝る体勢に入った。ここからなにも会話が生まれなければ、来馬はそのまま寝てしまうだろう。いつもならそれで太刀川も大人しく寝るのだが、今日は少しだけそれが寂しく思えた。だから不意に声をかけた。
「来馬ってさぁ」
「……寝ないの?」
 言いかけて、ふと止める。なにも言わなくなった太刀川を来馬が「なあに」と続きを促した。その声色はすでに眠そうで、あまり頭が働いてないように太刀川には思えた。
 だから今なら言えそうで、ついでに言えば太刀川も少しだけ眠くて、頭もどこかほわほわしていて、自分の体温で温められた布団に、顔半分隠して、くぐもった声を出した。
「来馬って、水みたいだよな」
 水、と、少し間を空けて、来馬が太刀川の言葉を反復した。
「それって、つかみどころがないってこと」
「そうじゃないよ……。そうじゃなくて、」
 そうじゃなくて。
 言葉を探す。だがすぐには出てこなかった。水を指して、掴みどころがないと言う来馬は正しい。だけどそうではない。そこではないのだ。脳内に浮かび上がったイメージは水の中の風景だった。剥がれかけたペンキの青と、見上げれば太陽の光が薄橙のぼんやりとした色を発していた。ごぽり、やってくるのは息苦しさ。ああそうだ、これが来馬だ。太刀川はふと思い出す。自分が感じたこと、あのとき、中学二年の夏に、感じて……。

「人を殺す水だ……」

 呟いて、なにかに包まれるような感覚に浸りながら、太刀川はそのまま目を閉じた。来馬はなにも言わなかった。ただ暫くして、遠くから規則的な呼吸音が聞こえ、その後すぐに太刀川も意識を手放した。





「掴みどころがどうという話だったら首を掴めばいいんだよ」
 夢の中であると太刀川は即座に気づいた。来馬がいる、いつもの部屋の中だ。だが部屋の中をよくよく見渡せば、いたるところに置いてある水槽が、アクアリウムがその姿を消していることに気づく。空っぽの水槽だけ置いて、いるはずの魚も水もない。
「首?」
「掴みやすいだろ、」
 来馬がそう言って己の首を掴んだ。掴む、握るような、絞める、ような、手つき。「つかみやすい」
 だからそういう話ではないのだけれど、と太刀川は思ったが、来馬の細い指先が、これまた細い首に馴染むように薄い肉にしんなり馴染む様子を見て、どくんと心臓を高鳴らせた。いやな感じだ、目をそらしたくなるような光景。夢の中の来馬はまるで作り物のように思えた。
「だからそういうことじゃねえんだって」
「水の息苦しさを不快に思ったことはない?」
 太刀川がひく、と喉を鳴らした。来馬は依然、自分で自分の首を絞めているままである。「ない」口に出した言葉がごぽりと水にとける感覚。だがここは水の中ではない……。
「じゃあこのまま溺れる?」
「ちがう、おれは、……おれは死にたいわけじゃない」
 壊れたレコードを前に繰り返し同じフレーズを歌っている気分だ、と太刀川は思った。こんなの夕飯時に話した会話の反復でしかない。
「ならどうしなきゃいけないの」
 わかるでしょう、と来馬が微笑む。聖母像のような微笑みだった。太刀川は一度だって聖母像を見たことがないが、きっとこんな顔をしているのだろうと漠然と思う。無機質な微笑み、感情の見えない視線、閉じた口元……。そこに慈愛はない、作り物だ。太刀川が作りだした微笑みだ。
「しなきゃ、いけないこと……」
 太刀川が震える唇をひらいて呟く。来馬の表情は変わらない。
 来馬と共にいると息苦しさを感じる。来馬は太刀川にとって水のような存在だ。コップに入った水なんてものじゃない。それは海のように広くプールのように人工的で。太刀川を包み込み殺す水。だけど太刀川は殺されてはいけない。水の中にいて溺れそうになれば水の中から浮き上がればいい。
「水の中にいて苦しいのがすき、でも結局水から頭を出すってことはその先にいこうとはしたくないってこと。太刀川の言うとおりだね。
「おれと一緒にいることは水の中で息を止めてることと一緒。
「でもずっとそのままでいたら太刀川は」
 死んでしまう
 答えは出ているようで出ていないように太刀川には思えた。喉にひっかかる小骨のような感じ。気持ち悪いと思ったがどうにもならない、そもそもこれは夢なのにおかしな話じゃないか、気持ち悪いという感覚があるなんて。
「プールに入らなければいい」
 悩んだ末に出た答えがこれか、と自分で言って自分で呆れる。それではなんの解決にもなっていないのに。来馬もそう思ったのだろう。困ったように眉をハの字にして、違うよね、と言う。
「プールだけじゃないでしょ、例えばお風呂は」
「え、」
 どこからしたのかわからない、ぼちゃんという音に太刀川は驚き声をあげた。気づけば場面は移り変わり、来馬と太刀川はバスルームの、湯が張った湯船の中にいた。湯船の中で、膝をこすり合わせるように向かい合って座っている。二人共服を着たままだ。服が濡れてしまう、とぼんやりとした頭で考えるが、どちらにせよ夢の中なので関係ない。
「太刀川はどうする」
「どうする、」
「これもプールとおんなじだね。窒息するギリギリまで中にいる」
 ごぽり。目の前で空気の泡が溢れる。
 だが太刀川は湯の中に頭をつけていない。ここは息ができる世界だ。
「水から頭を出しましょう、さてこの場合太刀川はどうするの」
 どうする、どうするって。「わからないの、簡単だろう」来馬の腕が後ろでに向かう。来馬の背にちょうどある、湯船の栓。あ、と太刀川は声をあげた。きゅぽん、と軽快な音と共に、栓が湯船の底から抜けて出た……。
「これと同じだよ」
「おなじ」
 渦を巻き、空いた穴から抜けていく湯を見つめる。ああ、とそのときはじめて、太刀川は来馬の言わんとすることを理解した。そして何故彼が己の首を絞めるようなポーズをしたのかも。
 これは夢である。太刀川の深層心理を映し出した、太刀川の夢なのだ。
「おれは、」
「うん」
「おれは来馬を、」
 震える太刀川の口元に、来馬が己の掌をあてた。まるでそこにキスさせるような行動。唇の先がそっと来馬の掌に触れて、太刀川の震えは収まった。
「来馬を殺す」

 あ、と太刀川は言って目を見開いた。そして同時に理解した。なるほど目の前で来馬がやけに死にたがりのポーズをしているのは太刀川が来馬に抱くこの感情に許しが欲しいからなのだ。この感情、来馬を殺してしまいたいという感情!
「違う」
 違う、違う!
 口を覆う。垂れ流れる汗の滝。もしかして涙も出ているかもしれない。来馬の表情がようやく変わるのを見た。聖母のような微笑みから打って変わった無表情。なんて目をする男だろう。ガラス玉の瞳に太刀川はうつっていない。気づけばまた場面は移り変わり、湯のなくなった湯船の中から先ほどの部屋へと戻っていた。からっぽの水槽が並んだ来馬の家のリビングだ。恐怖ゆえに太刀川は後ずさる。来馬は追ってはこないがしかし腕を太刀川へ差し伸べてきた。
「太刀川は間違ってないよ」
 来馬の腕が太刀川の腕を掴んだ。夢の中だ、痛みはない。だが感じる圧迫感はなんなのだろう。
「間違ってる、間違ってるだろう、こんな感情!」
「間違ってないよ、」
「やめろ」
 泣きそうな声だった。実際太刀川は泣いていた。みっともなくぼろぼろと、恥も外聞もかなぐり捨てて。
「おれの夢のなかで、そんなこと言わないでくれ……」
 でもだって、ここは太刀川の夢じゃないか

 いつの間にか太刀川は来馬に距離を詰められていて、来馬は太刀川の耳元でそう囁く。硬直した太刀川の体をそっと撫ぜると来馬は「はは」と笑った。






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