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大宮盆栽村の変遷(3/4) ~閉園・移転した盆栽園~

すでに閉園・移転してしまっている盆栽園についても、いくつかピックアップしてまとめていきます。(前回の記事はこちら

今回の記事で登場する盆栽園

Open Street Map(盆栽園の位置は大まかです)

清大園(1925年~1955年頃?)

1925年、盆栽村移転の中心人物である清水利太郎が開園。(1935年には稲荷神社に「清水瀞庵(清水利太郎)翁紀功碑」という石碑が建てられています。)

清水瀞庵(清水利太郎)翁紀功碑

『五十年のあゆみ』(『大宮盆栽村五十年のあゆみ』(1973年 大宮盆栽組合。以下、「五十年の歩み」という。)等を見る限り、藤樹園の北西側、しで通りとかえで通りがぶつかる辺りに位置していたようで、国土地理院空中写真でも盆栽園と思われる広大な敷地が確認できます。(青枠の辺り)

国土地理院空中写真(1945~1950年)

1947年の「盆栽村春季陳列会」には参加していますが、1973年の『50年の歩み』では盆栽園一覧に掲載されていません。1955年に清水利太郎が亡くなっており、その時期に閉園したのでしょうか。

なお、ゼンリン住宅地図では1980年代後半から1990年代半ばまで「タバコ屋清大園」又は「パン屋清大園」があり、何らかの関係があったと思われますが、現在は一般の住宅となっています。
(1980年の地図では「清水園」との記載があるが誤記の可能性あり。)

清大園があったと思われる場所

内海華園(1925年~1937年頃?)

内海源之丞が開園。初期移転組ですが、芙蓉園の竹山房造が弟子入りした直後に急逝しています。

1935年の「大宮名所盆栽村」という案内図(『100年のあゆみ』に掲載あり)では「草花、水蓮、盆栽」とあるように、盆栽専門ではない「異色」の盆栽園(『大宮盆栽村クロニクル』p.255)だったようです。

なお、『100年のあゆみ』では単に「華園」と記載されていますが、その理由は不明です。(『五十年のあゆみ』では他の盆栽園も「加藤蔓青園」のように名字が記載されていたため一律で落としたのかもしれません。)
漫画会館南側の一角に位置し、現在は住宅が建っています。  

寛楽園(1927年~2008年頃?)

1927年、中村五三郎が開園。(『80年記念誌』では1939年開園とされている)

寛楽園跡地(盆栽四季の家の向いに位置する)

『80周年記念誌』では「原木を大地に植えて育て、それを鉢に移して盆栽に仕上げる」と書かれており、かつては広い敷地だったことが想像できます。
2007年に更新された九霞園HPには記載がありますが、2008年から2010年頃の盆栽村のリーフレットでは記載がないことから、この頃に閉園したものと推測されます。『80周年記念誌』でも「後継者がいない」「営業活動はほとんど休止している」との記述があります。

一方、ゼンリン住宅地図では2020年(確認した直近のもの)まで記載があるのですが、これはまだ寛楽園の看板が門に掲げられていることからだと思います。実際に今でも盆栽園としての姿が残っており、2024年の大盆栽まつりでも開放されていました。(SNSでは、開放は2024年までとの話あり。)

敷地面積としては、2000年から2005年にかけて土地が半分程度になっています。手放された敷地は約1,500 ㎡で、2003年に土地開発公社に取得された後、さいたま市によって駐車場の整備等が検討されたものの塩漬け状態の模様。20年経過した今も空き地となっています。(個人的には盆栽町の中心部に車が出入りするようになるのは少し危ない気がします。)

寛楽園跡地 立派な生け垣が昔の盆栽村を想起させる

参考1:さいたま市による跡地の活用方針(2015年時点)

・盆栽村来訪者のための公的な駐車場と盆栽村巡回の拠点として整備することが最適。
・盆栽村巡回の拠点として、駐車場の他休憩施設や案内施設の併設を検討する。
・盆栽村の中心に販売所があった方が見学者の利便性が高い。村を回遊した後に、盆栽を購入して帰ることが期待できる。

(仮称)盆栽アカデミー基本構想及び基本計画(2015.5)
寛楽園跡地(駐車場用地)
(仮称)盆栽アカデミー基本構想及び基本計画

参考2:さいたま市議会における市の説明

寛楽園さんにつきましては、『盆栽四季の家』と一体となった活用方策を検討する中で、土地の一部を購入する方向で進めておるところでございます。

H15.9.9定例会

(盆栽美術館の建設に関連して)平成15年度に土地開発公社で取得いたしました、盆栽四季の家の西側になりますが、元寛楽園の用地の一部、ここに駐車場を整備する予定でおります。

H17.9.21決算特別委員会

大宮盆栽村エリア内の寛楽園跡地や盆栽四季の家などの利活用について、大宮盆栽協同組合の御意見も伺いながら、検討を進めております。

H31.2.13定例会

留芳園(1943年~2010年頃?)

1943年、清水利太郎の子である清水良悦が開園。
清大園と同様、藤樹園の北西側、しで通りがかえで通りとぶつかる辺りに位置していたようです。

留芳園の跡地と思われる住宅

清大園を引き継いだ上で名称変更したのかとも思いましたが、1947年の「盆栽村春季陳列会」で清大園と並んで掲載されているため、そういうわけではなさそうです。
『80周年記念誌』(2002年)では「後継者がいない」との記述があり、2010年のゼンリン住宅地図から消えていることから、2000年代半ばに閉園したと思われます。現在は一般住宅と駐車場となっています。

なお、稲荷神社内の「清水瀞庵(清水利太郎)翁紀功碑」の題字も「留芳」です。

苔香苑(苔香園)(1983年頃~2005年頃?)

1983年頃に開園。
『100年のあゆみ』では唯一、開園年に「頃」と記載されていたり、『80周年記念誌』では、地図上に「苔香」として記載があるものの各園のインタビューには載っていないなど、比較的新しい盆栽園ですが詳細不明です。

1985年のゼンリン住宅地図では見つけられませんでしたが、1991年から2000年までは松濤園の移転前の土地に「苔香苑」又は「タイコウ園」の記載があります。
1970年の雑誌『自然と盆栽』では、神奈川県に同名の盆栽園がある(園主もゼンリン住宅地図と一致する)ことから、1983年頃に神奈川県から移転してきたものと推測されます。

その後、2005年のゼンリン住宅地図からは消えており、2000年代前半に閉園したと思われますが、株式会社苔香苑として法人番号情報は残っているところも謎を深めます。(8030001005153、2015年登録)

なお、ウィキペディアによると、都内にはかつて盆栽園「目黒花壇苔香園」が存在しており、1920年頃に閉園したそうですが、開業年の差から無関係と思われます。
現在、跡地には一般住宅が建っています。

松濤園と苔香苑の跡地と思われる住宅

奏デル盆栽(1985年~1996年)(現在は那須)

1985年、加藤秀男(八雲蔓青園)の子である加藤文子が開園。『100年のあゆみ』等に登場しないため、今回調べるまで私も知りませんでした。

余談ですが、父・加藤秀男氏の八雲蔓青園は『80周年記念誌』(2002年)には染谷地区にありますが、以前は蔓青園と同じ敷地内(?)にあった分園(蔓青分園)だったようです。

父の下で学び、盆栽町内で独立。その後、大宮盆栽町郵便局近くの貸家で盆栽園を営んでいましたが、貸主の都合等もあり、転出。那須へ移転したそうです。現在の那須でのご活動は「あうりんこnoこ」というページで発信されています。

奏デル盆栽があった大宮盆栽町郵便局付近(やなぎ通り)

加藤さんは那須へ移転する前の盆栽町について、ご自身の著書で次のとおり述べられています。

緑の緑地や雑木林も姿を消した。盆栽村のいわれも知らない人が大勢移り住んできた。大切にされていたはずの何かがだんだん失われてしまった。

『加藤文子の奏デル盆栽ノート』

今の盆栽町も他の地域とはかなり異なる雰囲気を持っていますが、それでも(奏デル盆栽が盆栽町にあった)1980年代から1990年代の変化は大きかったようですね。

まとめ

現存していない盆栽園のうち、ある程度詳細がわかったところをまとめてみました。

それぞれの閉園(移転)の経緯はよくわかりませんでしたが、寛楽園と留芳園は後継者不在による閉園、奏デル盆栽は環境変化などによる移転のようです。
当然、盆栽園ごとに色々な事情があるのだと思いますが、盆栽村開村の中心であった清大園や、80年代に新たに開園した盆栽園(苔香苑、奏デル盆栽)が閉園(移転)してしまったことは特に残念です。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

次の記事は、まとめと盆栽村の今後に関する私見です。



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