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私の発言 小柴 昌俊氏 「これなら,俺は,やりたい」と思えるようなものをつかまえさせるのが教師の役目

小柴 昌俊

小柴 昌俊(こしば・まさとし) 1926年 愛知県生まれ 1951年 東京大学理学部物理学科卒業 1955年 ロチェスター大学大学院修了(Doctor of Philosophy) 1958年 東京大学助教授(原子核研究所) 1963年 東京大学助教授(理学部) 1967年 東京大学理学博士取得 1970年 東京大学教授(理学部) 1974年 東京大学理学部附属 高エネルギー物理学実験施設長 1977年 東京大学理学部附属 素粒子物理国際協力施設長 1984年 東京大学理学部附属 素粒子物理国際研究センター長 1987年 東京大学名誉教授 1987年8月?1997年3月 東海大学理学部教授 1994年 東京大学素粒子物理国際研究センター参与 2002年 日本学士院会員 2003年 財団法人平成基礎科学財団設立 理事長就任 2005年 東京大学特別栄誉教授 2011年 公益財団法人平成基礎科学財団へ移行 理事長就任 ●研究分野 素粒子物理学 ●主な活動・受賞歴等 1985年 ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章 1987年 仁科記念賞 1988年 朝日賞 1988年 文化功労者 1989年 日本学士院賞 1997年 藤原賞 1997年 文化勲章 2000年 Wolf賞 2002年 ノーベル物理学賞 2003年 ベンジャミンフランクリンメダル 2003年 勲一等旭日大綬章 2007年 Erice賞

物理に進んだのは「こんちくしょう」と思ったから

聞き手:小柴先生が物理の道に進まれたきっかけをお教えください。

小柴:私は大体,大学の理学部物理学科に入ろうなんてことは夢にも思っていませんでした。それなのに,なぜ物理学科を受けて入ったか。
 私がいた高等学校は全寮制で風呂なんてありませんでしたので,生徒の委員が戦争の焼け跡を走り回って,焼け残った変圧器を見つけて持ち帰ってきて,その電熱で電気風呂を作りました。だから,先生とか先生の家族も,その風呂に入りに寮に来ていました。
 その頃はガラスが割れたからといってもすぐ直せません。外の寒い風が,ふうっと入ってくると,白い湯気がたって,その向こうは全然見えなくなります。そうしたら,その蒸気の中から声が聞こえてきたのです。「先生。小柴のやつは寮の副委員長をやったりアルバイトで忙しいとか言って学校へも出てこないけれども,あいつは一体どこへ行くのでしょうね。」どうやら一高で物理を教えていた3人のうちの1人の先生が,教え子の1人に質問されているようでした。先生は「どこへ行くかは知らんけれども,あいつの成績じゃあ,物理なんて受けたって受かるはずはないから,無試験のインド哲学か何かへ行くんじゃないのか」と,えらくばかにした発言でした。

 それで,私は腹が立ちました。試験まであと1カ月あったので,「よし。それじゃあ,もう何としてでも物理へ入ってやる」と決めました。そのころ,東京大学理学部物理を受験するには,一高の理科甲類というところの1割以内に入っていなければ,受けても落ちると言われていました。ところが,私は理科甲類ではあるけれど,190人中半分の九十何番でした。だから,受かるはずはありません。けれども,「こんちくしょう」と思いましたから,何としてでも入ってやろうと思いました。僕と同じ部屋で暮らしていた,朽津耕三(現東大名誉教授)という,飛び切りの秀才がいまして,彼は私と一緒に理学部に行きましたが,物理ではなくて化学へ入って,今は化学の名誉教授になっています。その彼がものすごい秀才で,私は「おい,朽津。俺は物理を受けることにした。1カ月間,おまえは俺の専属の家庭教師になれ」と言いました。彼が私に付きっきりでいろんなことを教えてくれたおかげで物理学科に入りました。
 入ったのはいいのですが,もともと物理をやりたいと思って入ったわけではないし,それから稼がなければならないという事情は依然として変わらないわけです。というのは,おやじが職業軍人で,戦争に負けてから職がなくなり,両親と兄弟4人の,合わせて6人の飯を何とか稼がねばならなくて,姉と私とでありとあらゆる仕事をしました。家庭教師は幾つもやりましたし,稼ぐのに一生懸命だったわけです。だから,物理学科の授業にはほとんど出ませんでしたし,卒業成績もみじめなものでした。
 卒業してどこかへ就職を考えるかといっても,戦争が終わってすぐの時代です。特に私は小児まひという病気で体が不自由ですから,普通の職には就けなかったのです。しかも,東大理学部の学生という身分がなくなると,家庭教師の口がなくなってしまうわけです。それでは困るから,大学院に入ろうと思いました。ありがたいことに,その頃,大学院は入学試験がなくて,教授が「俺の研究室へ来て勉強してもいいよ」と言ってくだされば,大学院生になれました。それで,同じ高等学校の先輩だった,理論物理の山内恭彦先生に,「先生の研究室へ入れてくれませんか」と言ったら,「ああ,いいよ」と言っていただき,大学院生になりました。
 けれども,物理の勉強をするわけではなくて,「大学院生」という肩書きを使って家庭教師をやっていたわけです(笑)。だから,物理を一生の仕事にしようなんてことは夢にも考えていませんでした。

自分で書いた推薦文でロチェスターへ留学

聞き手:そんな学生時代から,素粒子を含めた研究をすることになった経緯を教えてください。

小柴:私の高等学校の2年先輩で,物理の先輩でもある藤本陽一という,現在は早稲田の名誉教授になっている人がいます。彼が「小柴君。今度,イギリスのブリストル大学で発明された原子核乾板というのが日本へ輸入されて使えるようになった。これだと今までは写らなかった電子なんかも写るよ。ひとつ,これで素粒子を眺めてみませんか」と言ってくださいました。

「それではやってみよう」と,富士山のてっぺんにその乾板を上げて,宇宙線がたくさん当たるように1カ月間そこに置いておいたのを持ち帰り,現像して,定着して,水洗いして,乾かして,顕微鏡でのぞいてみたら,湯川先生の話に聞いていたパイ中間子がそこに見えたのです。それが止まってミュー粒子を放出して,ミュー粒子が走っていったり,だんだん遅くなって止まって,止まった所から電子が飛び出したりするのが見えて,「あ,これなら俺にも付き合えるな(笑)」と思いました。その時から,原子核乾板の仕事をするようになったのです。それでのぞき始めたんですけれども,先輩の藤本さんと「イギリスからもらった乾板で,2人でのぞいていたって,どうせ『井の中のカワズ』で終わってしまうだろう。やっぱり,われわれは本場へ行って修行してこなければ,どうしようもないだろうね。」と話し合いました。藤本さんはその時,もう助手で,学位も取っていましたから,本家本元のイギリスのブリストル大学にリサーチアソシエートとして出掛けていきました。ところが,私はまだ大学院に入って2年目で,学位もないから,ブリストル大学に行くなんていうことはできませんでした。
 そのころ,世界中で原子核乾板を使った研究で本家本元のブリストル大学に次いで世界2位の実績を挙げていたのが,アメリカのロチェスター大学でした。だから,私は行くとしたらロチェスター大学へ行きたいなと思いました。けれども,つてが何もないわけです。
 それが運のいいことに,ノーベル賞をもらった湯川先生が,アメリカ物理学会がニューヨークであった時にコロンビア大学に行っていて,昼飯をロチェスター大学の理論物理教室主任と一緒に食べて,「ロチェスター大学はアメリカでは物理で一流校と認められていない。アメリカのいい学生はみんなハーバードとかMITへ行ってしまうから,ロチェスター大学としては,仕方がないから,毎年インドからできるやつを3人ぐらい選んで,奨学金を出して勉強させて学位を取らせている。もし日本から「これは」と思う学生がいるんだったら同じように引き受けるけれども,どうだ?」という話があったのだそうです。
 それが日本へ伝えられたのですが,先ほど話したように,私の卒業成績なんてみじめなものでしょう。だから,日本から3人を選ぶといっても,普通だったら選ばれるはずもないのですが,なぜ私は運が良かったか。
 実は個人的な事情から,それよりずっと前から朝永振一郎先生と仲よくなっていたのです。私が行った高等学校は全寮生活で,私は全寮の副委員長をやったりしていて,その時の校長先生と,学生のことで何かと話し合っていたんです。私が卒業する3月に,その校長先生に校庭で会ったら,「小柴君,何学科へ行くことになりましたか」と聞いてくださって,「私は物理へ行くことになったんです」と言ったら,「ああ,そうですか。私は物理のことは何も分からないけれども,私が京都大学で師事した朝永三十郎先生の息子さんが物理をやっていて,私は頼まれてその人の結婚の仲人をした。その人が今,東京で物理を教えているから,紹介しましょう」と言って,紹介状を書いてくださいました。
 当時の私は,朝永先生がどのくらい偉い先生かも全然知りませんでしたが,せっかく紹介状をもらったから会いに行きました。朝永先生は空襲で家を焼かれて,他の戦災者と一緒に陸軍の防空壕の中で暮らしているという状況でした。それでも,会って話していると,10分もたたないうちに,僕は朝永先生が大好きになっていました。朝永先生も私を気に入ってくれたらしく,それからは,何かというとすぐ連絡を取って,お互いに飲んでくだらないことをおしゃべりしていたのですが,それが楽しかったんです。
 それで,朝永先生に,「先生,俺は今,原子核乾板を始めていて,やっぱり本場へ行ってしごかれなければ本物になれないと思う。藤本さんはブリストルへ行けたけれども,私はそういうつてがない。ロチェスターは世界で2番目だ。この際,私は行きたいんだ。先生,私を推薦してください」と言いました。すると,「あなたはアメリカへ行ってもすぐ英語で困るに決まっているから,自分で英語で推薦文を書いてみて」と言われ,私はひどい英語で「成績は良くないけれども,それほどばかではない」と何とか書いて先生に見せたら,先生は,にやっと笑ってサインしてくださいました。そういうわけで,日本から選ばれた3人の中に入れて,ロチェスターへ行ったんです。
聞き手:その後,小柴先生がロチェスターで学位を取るのが,最速の記録になったというお話も伺っています。

小柴:うん。なんか今でも短い記録になっているらしいですね。別に,確かめていないけれどね。こちらには金が欲しいという事情がありましたからね(笑)。ロチェスターでは,奨学金が月に120ドルあるけれども,税金で10パーセントを天引きされて,天引きされたぶんは年末に返ってくるけれども,苦しいわけです。そんな時に,アメリカでは,物理で学位を取ったら月に400ドルは確実にもらえるという話を聞いて,それはもう一刻も早く学位を取らなければと思って,大急ぎで学位を取ったわけです。

陽子崩壊を何とかつかまえたい

聞き手:ロチェスター大学で原子核乾板の研究からどのようにニュートリノの計測にまで進んだのでしょうか。

小柴:ニュートリノまでは,まだなかなか行かないですよ(笑)。ニュートリノへ行くのは,もっとずっと後なんです。
 ロチェスターでは原子核乾板の仕事をやりました。高い空に風船で原子核乾板を露出して,降り注いでくる宇宙線をできるだけ生の形でつかまえて,その元素組成がどうなっているかを調べる実験をやっていました。それをずっと続けていたから,うちの学生にも乾板の仕事しか与えられませんでした。乾板の仕事だけだと教え子に学位を取らせても就職が難しいから,エレクトロニクスを使った実験も始めることにしました。  そして,年月が過ぎて,新しい物理の理論というのが提案されました。その新しい理論が本当だとすると,今まで無限に安定だと思っていた陽子という粒子がひとりでに崩壊してしまう,という結論が出てきました。「そんなことが起きたら,これは大変なことだ。でも,何とかそれを測りたい」と思いました。日本で測ろうとするには,できるだけ安くして文部省にお金を出してもらいたいので,一番安くそれを測るにはどうしたらいいだろうというのを考えました。

 そこで,雑音の少ない,地下の深い所へ水をためて,水の中にはたくさん入っている,陽子が崩壊すると,必ず陽電子が一方へびゅっと走りだして,反対側には中性パイ中間子がびゅっと飛び出すのですね。ご存じだと思いますが,中性パイ中間子というのはすぐガンマ線2つに変わるわけです。ハイエナジーなガンマ線がこちらへ出てくると,それが水の中だと,陽電子・電子のペアをつくって,カスケードシャワーというのをばっとつくるんです。このハイエナジーの陽電子の方もカスケードシャワーをばっとつくります。そうすると,両側にチェレンコフ光が,ぱっと出るわけです。だから,水をためて周りに光をつかまえる玉を置いておけば,反対方向に同じくらいの強度のチェレンコフ光が,ぱっと出たという現象をつかまえれば,間違いなく陽子崩壊がつかまえられると考えました。だから,これはいい手なんです。
 私がそれを文部省に提案して,ようやく1億3,000万円の予算を約束してもらいました。その当時,世界で一番感度のいい,光をつかまえる玉というのは,直径20センチの,5インチの玉で,1つが13万円でしたので,それを1,000個取り付けると1億3,000万円かかるのです。
 さて始めようかなと思ったら,私の古い友達で,アメリカのフレッド・ライナスという,彼は後に,原子炉からニュートリノが出ていることを実験で確かめてノーベル賞をもらった男なんですけれども,彼から知らせが来て,「アメリカで陽子をつかまえる実験を計画している。できるだけ安く上げるには水を使うのが一番いい」と,僕と同じことを言っていました。彼は,水を5,000トンぐらいためて,周りを取り巻く光をつかまえる玉も5,000個使う,と。金があるからできるのですね。私は1,000個だった。それぞれが,周りの壁に1平米に1個ずつ付けているわけです。向こうはそれだけでかいから,玉の数も多いです。だけれども,感度は同じなわけです。
 そういう状況で陽子の崩壊を発見する実験をそのまま続けても,ライナスの方が勝つに決まっています。ライナスが「あ,2~3個見つけた。」と言ったときに,日本の神岡の実験が「うちでも1つ見つかりました」なんて,こんな情けない後追い実験をするために, 国民の税金1億3,000万円を使っていいのかと,私はものすごく悩んだんです。このままでは負けるに決まっているので放っておくわけにはいかないです。
 それで,浜松ホトニクスという会社の社長を呼び出して,「俺は,どうしても,直径50センチのでっかい玉が欲しいんだ。これを新しく開発しよう。」と強談判をしました。彼はなかなか「うん」と言わなかったですね(笑)。結局,うちの学生や助手を送り込んで浜松ホトニクスの技術者3人と共同でその開発に当たらせることにしました。そして,一年足らずのうちに,でっかくていい玉ができました。「ああ,しめた」と,それを1,000個,取り付けました。

苦労して,雑音を除去して太陽からのニュートリノを観測した

小柴:これは,それまでの玉よりも感度が16倍も上がってしまったので,今まで見えなかったものが見えるようになりました。同時に,周りからの雑音もたくさん拾うようになりました。つまり,周りの岩から出てくる放射線のガンマ線が水の中の電子をたたいて電子が走りだすと,その電子も光を出すから,それが見えてしまいます。そうすると,細かいものが見えるのは良くなったんだけれども,雑音も多くなってしまうので,私は考えました。
 陽子崩壊なんて,いわば一発勝負のことだけやっていたら,アメリカに負けてしまいます。これで感度を良くしたのだから,われわれとしてはもっと地道に「これなら,いける」というのをつかまえるべきではなかろうか。太陽がニュートリノをたくさん出している。その太陽のモデルは分かっているから,太陽からのニュートリノがカミオカンデの水の中の電子をぱんとたたいて電子が走りだすのがどのくらいの頻度であるかを計算してみると,10日に1遍ぐらいはそういうことが起こっても不思議ではないことが分かったので,「よし。それでは,これを狙おう」ということになりました。

 だけれども,太陽から来るニュートリノといったって,エネルギーがそんなにでかいわけではないです。数MeVという電子が走りだしたのを,周りの雑音を除去するいろいろな手配をしなければいけないので,本体の周りにさらに水の層をつくって,アンタイコインシデンス(anticoincidence=反同時発生)という別の層をつくって,それから水の中のラドンの量も減らすとか,雑音を減らすのに大変苦労しました。それで,ようやく,太陽からのニュートリノがそれと見分けられるようにできたわけです。
 それが,ニュートリノを測り始める最初でした。
 太陽からのニュートリノがちゃんと見えるようにできたのは,1987年正月の元日でした。私はそこから太陽ニュートリノの観測を本気で始めたのです。それから二カ月ぐらいたったときに,超新星からのニュートリノが,パルスが固まってぱっと入ってきて,それがきれいに見えたわけです。そういった点では運が良かったということですね。私は,そのデータが出たときに箝かんこう口令を敷きました。もし間違いがあって,実際のシグナルでなくて何かの雑音がこんなふうに見えたとかいうふうなことになったら,大変な恥になりますから。「1週間,絶対に人に漏らすな」と言いました。そして,ありとあらゆる雑音の可能性を調べて,これは雑音ではなくてちゃんとした信号だということを確かめてから,アメリカの『Physical Review Letters』という雑誌に論文を出しました。実験屋というのは,不注意な間違いを一度やると,それから先,信用されなくなりますから。
 同じような水の実験というのは,先ほど話したライナスたちがもっとでかい水槽を使ってやっているわけです。そこにいる若いアメリカのユダヤ人が,日本にいる私に電話をかけてきて,「おまえの方で見つけるより前に,われわれの水槽実験で超新星のシグナルを見つけているんだ。だから,最初に見つけたのは俺たちの方だ」と言ってきたんですね。それで,僕は怒鳴りつけてやっつけてやりました。
 われわれの信号が何日の何時何分何秒にこれだけのシグナルが来たということを,ある学者に教えたら,その人が不注意にも「日本の神岡で何日何時何分何秒にこういう信号が見つかって」と,アメリカのライナスのグループに属していた学者に話してしまったのです。彼はすぐ自分たちのデータを見て,そのままでは彼らには雑音がたくさんあって分からないのですが,うちの言った時刻には何個かの信号が固まっているのはわかりました。それで,その若い学者は「俺たちが先に見つけたんだ」というようなことを言いだしたのです。それをやっつけてやりました。
 そういうこともあって, 結局『Physical Review Letters』では,われわれの論文がまず出て,それに引き続いて追認するという格好でアメリカの論文が出たわけです。

感度をあげる以外,他に手立てはなかった

聞き手:研究されている中で壁に当たったりしたときに,それを越えられるために何か心に思っていらっしゃることはございますか。

小柴:3,000トンの水をためて陽子崩壊を探そうという時に,アメリカでライナスたちが数倍でかいやつを始めた時は「困ったな」と思いました。それを何とかして乗り越えて勝たなければと,こちらは,分量を増やすわけにはいかないから,感度を上げてやろうというので対抗したわけでしょう。それがうまく当たってくれたのですね。私には感度を上げる以外にライナスと戦う余地はないと思いました。ところが,この玉1,000個分の予算しか文部省からは取っていませんでした。浜松ホトニクスの社長の尻をひっぱたいて,共同でこんなにでかい玉を作ったんです。では,このでかい玉1つを13万で買えるかというと,買えなかった。だけれども,もらっている金は1個当たり13万円しかないから,とにかく13万円だけを払ったわけです。そうしたら,浜松ホトニクスの社長が「先生のおかげで,うちの会社は3億,損をした」と言い続けていました(笑)。

 そのうち,超新星ニュートリノの観測というのが世界中のマスコミに注目されて,「それを達成したのは,このでかい玉のおかげだ」と世界中で広まったでしょう。それで,浜松ホトニクスは一遍に世界的な大会社になってしまったわけです。ただで宣伝してもらったようなものですから,その次に社長と顔を合わせた時は,「先生。おかげさまで,私の財産は73億だ」と言っていました(笑)。その後,私がこの財団をつくる時に基本財産というのを用意するのですが,日本では,最低1億円用意しなければいけません。ところが,私がその時に持っていたのは,ノーベル賞のお金3,500万円と,その前にもらった「ウルフ賞」の500万円,合わせて4,000万円しかありませんでした。だから,私は浜松へ行って,「おい。俺みたいな貧乏人が4,000万円出すんだから,おまえさんは6,000万円出せ」と話したら,「はい」と言ってすぐに出してくださいました(笑)。


基礎科学のために応援してくれませんかキャンペーン

聞き手:平成基礎科学財団をおつくりになろうと思った動機は何だったのでしょうか。

小柴:財団は,ノーベル賞をもらった次の年につくりました。日本ばかりではないけれども,基礎科学というのは,何か役に立つものを発明するとか,そういうこととは全然関係ないでしょう。たとえばニュートリノのことがよく分かるようになったって,何の産業の利益にもならない。基礎科学というのは,文明国であろうとすることを少しでも喜ばせるためのものでしかないです。

 だから,僕は,産業界――例えばトヨタの大親分の豊田章一郎だって,私の仲のいい友達です。ただ,あいつに「金を出してくれ」なんて,一遍も言ったことはない。どうしたかというと,日本が文明国で,われわれは文明国人であるというなら,日本人の,おじいちゃんもおばあちゃんも赤ちゃんも,みんなが年に1円ずつ,基礎科学のために応援してくれませんかというキャンペーンを始めたわけです。それをだんだんサポートしてくれる人たちも出てきています。たとえば,ある県はその住民の数だけの円を毎年寄付してくれるし,さるお方はおふたり分としてその年に2円,そしてそれが続けられるようにと,別に20万円の基金を下さった。そういう例が,ぼちぼちとたまってきています。
 この財団は,例えば,年に7回ぐらいかな,「楽しむ科学教室」というのを開いています。お母さんが代わりに申し込んだとか先生に引率されて来るとかという人は入れてあげません。その当人が「私が聞きたいから」といって自分で申し込んでくる人間だけを入れています。だから,大体70人ぐらいの人を相手に最先端科学をたっぷりと聞かせて,たっぷり質問をさせてということをしています。そのうちの何回かは教材としてDVDに作成して,希望する全国の高校・大学に無償で送っています。公益財団法人ですから,お金なんかは受け取りません。

私の教え子は皆,独自の成長をしている

聞き手:最後に,研究職で学生を指導されている大学の教員の先生方に向けて,学生を指導するに当たってのアドバイスを一言お願いします。

小柴:私の教え子は一人一人がみんな違います。皆,独自の成長をしています。僕は,自分の所へ来た大学院の学生にどういうことをやらせようとか何とかということは考えないで,この男は一体どういうことに興味を持つだろうか,と考えました。当人が自分で興味を持ってやろうという気にならなかったら,どうしようもないです。伸び伸びと自分でやっていければ,報告もいりません。だから,教師としてやるべきことは,その子にいろんな経験をさせて,そのいろんな経験の中から「あ,これなら,俺は,やりたい」と思えるようなものをつかまえさせる,僕は,それが教師の役目ではないかと思っていました。僕は他のやり方を知らないですしね。いろんなやつがいたけれども,もう死んでしまったやつが4人もいます。私は子どもに先立たれた親みたいなもので,情けないです。

(OplusE 2014年8月号(第417号)掲載。肩書などは掲載当時の情報です)


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