私の発言 伊賀 健一氏 何か新しいものを作っておくと,誰かが面白い応用を考えるものです
東京工業大学 学長 伊賀 健一
経験と産業の潮流を読み研究テーマを選択
聞き手:伊賀先生は1973年に東工大の助教授になられ「分布屈折率ファイバーによる通信・画像伝送」と「半導体レーザー」の研究を始められます。この2つの研究が,その後の光エレクトロニクスの基礎を築くわけですが,このテーマをなぜ選ばれたのでしょうか。
伊賀:東京工業大学の前身は明治14年に設立された東京職工学校でして,昭和4年には東京工業大学へ昇格し,戦後昭和24年に国立東京工業大学となりました。その当時の和田小六学長が,「研究室は自由でなければならない」と大学改革に取り組み,そのころから教授と助教授は独立の研究室を持っていました。抱える学生数なども同等で,研究テーマもそれぞれ独立に挙げるという運営を伝統的に行ってきました。これが東工大の非常にいいところです。私も助教授となり研究室を任されましたが,装置も予算もない中から研究テーマを自分で考えなければいけません。そこで,大学,大学院,その後助手を6年半してきた経験を基に,世界的な光の分野の発展や将来の方向などを考えながら「レーザー」と「光伝送」を研究テーマに選んだのです。
1962年のころ,卒業研究の指導教授で後に東工大の学長にもなられた末松安晴先生から,「光通信をやろう」と言われ,卒業研究と大学院修士の3年間ほど,固体レーザーであるルビーレーザーの研究をしました。長さ4mm,太さ2mmぐらいのルビーの棒の両端を平行にして反射鏡を付けその間で反射させる,いわゆるファブリペロー共振器を作るわけです。電源なども自作し,東工大で初めてレーザー発振を得たのです。この時に,レーザーの素養,基礎をみっちりと勉強しました。そして修士が終わるころに,光通信にはルビーレーザーは使えそうにないな,との結論に至ったのです。ルビーレーザーは,単発のパルスがポンと1つ出て終わりというレーザーですから,目の手術などには使えますが,通信には使えません。そこで末松先生の助言を得て,「光伝送」という光を遠くまで伝える研究をすることになりました。今で言う,光ファイバー伝送です。光のパルスがあまり歪まず遠くまで行くという分布屈折率を持ったファイバーの伝送理論を博士課程の3年間研究しました。シュレディンガーの方程式に似た固有値方程式を解いて,光が歪まず遠くまで行く条件を求めたのです。解はうまく出ましたが,群速度を求める手前で終わっていました。ベル研究所の人や,東北大学の西澤潤一先生・川上彰二郎先生も同じ方向の研究をされており,方法は全く違いますが川上先生の群速度を求めた理論が米国の雑誌に投稿され,川上・西澤理論が世界的に有名になりました。もう少しのところで追い越されてしまったという感じで,惜しいことをしたなと思います。両先生はそうは思ってないかもしれませんが(笑)。つまり,レーザーと光伝送の2つの研究が助教授になった時の研究テーマの基になったわけです。
研究テーマが産業界を牽引 20%は研究成果,80%は社会進歩
聞き手:この2つの研究は,その後,光エレクトロニクスの基礎を築くような研究テーマになりますが,この時,日本の産業界を牽引する技術になるかもしれないとの予測はあったのですか。
伊賀:「はい」が20%で,「よく分からない」が80%ぐらいでしょう。博士課程を修了したのち東工大の精密工学研究所の助手になりましたが,今までの研究と全く違う研究室に入ることになりました。そこで6年間ほど,ルビジウムの原子を使う周波数標準の研究をやっていました。1972~73年ごろに半導体レーザーと光ファイバーが世の中に出てきて,光通信への兆しが少し見えてきたのです。レーザーを初めて扱った1962年当時から10年近くたっており,世の中の光通信に関する動向,勢いが出てきた時代でした。
國分泰雄君らと屈折率分布を利用して光を伝える研究をしていたのですが,その中で,画像がファイバー1本で送ることができると分かってきました。光が滑らかに蛇行しながらファイバーの中を伝わっていき,ある1点から出た光をある1点に画像として伝えることができるのです。ずっと以前,「一枚の写真」(1993年5月号)に載せてもらったことがあります。1968~70年にかけて,光が蛇行してレーザービームに伝わり画像ができるという研究が行われていました。日本電気(株)と日本板硝子(株)が開発したセルフォックというレンズやファイバーです。並列にしてコピー機に搭載し,スキャンした画像をファックスやコピー機の光検出器で電気信号に変えて伝えるという仕組みです。こういったファイバーを並べて画像の再生を行う研究も始まっていましたので,同じ光通信でも画像伝送の研究が面白いと考えたのです。研究には基礎というか根底にあるものが大事で,レーザーの共振器で光が行ったり来たりするというのは,光が遠くへ行くのと全く同じ原理なのです。レーザーと光伝送という根底があって,なおかつ光通信に少し曙が見えてきたということだと思います。自分の研究が将来の光エレクトロニクスの大きな発展になるかどうかという意味では20%ぐらいですが,よく分からないながらもそういうお日さまの光が見えてきたという80%ぐらいは世の中の発展によるものではないでしょうか。
ものになると分かっていれば研究をやる必要はない
聞き手:1977年に伊賀先生が面発光レーザーを発案され,1988年に室温動作で連続達成し,これをきっかけに半導体レーザーに関する研究が世界中で加速します。それまでの10年間,研究している面発光レーザーが「ものになるのだろうか」と不安になることはなかったのでしょうか。
伊賀:ものになるかどうかはっきりしていれば,それはやる必要はありません。研究の初期ではすべからく分かりません。この前,登山家の竹内洋岳さんが8000m以上の14峰を全踏破したというテレビのインタビューで「山に確実に登れることが分かっていたら,登る必要はない」と言っていました。登山家もそういう気持ちだと聞いて私も驚きましたが,研究にしても「これがものになる」と分かっていれば皆がやるわけで,逆に言えば,そうなればやる必要がありません。高い山があるかもしれないし,どういうものか分からないからやるんだ,と自分でイメージをつくって,それを実現しようというのが一番大事なことです。「もしできたら非常にいい」というイメージが必要です。先端研究なのか末梢研究なのかは結果論になります。
聞き手:1977年に面発光レーザーを発案され,これから研究に力を入れようという時にベル研究所にお出になり,面発光レーザーではなくエッチングレーザーの研究をされますよね。後ろ髪を引かれるというか,面発光レーザーの研究ができない焦りのようなものはありませんでしたか。
伊賀:焦りはあまり感じていませんでした。もちろん研究室を留守にしますから,できなくなるということはあります。しかし,面発光レーザーに関する限りはそれほど競争相手がいませんから(笑),ゆっくりやればいいと思っていました。すぐに成果を出したりしなければいけないなどの焦りや,競争しなければならないという切迫感はありませんでした。ゆっくり研究すればいいので,研究室の諸君で面発光レーザーの研究を続けてくれればよろしいと思っていました。
私もベル研究所で面発光レーザーを研究すればいいのですが,当時のベル研究所は光ファイバー通信の実用化に向けて必死で研究していました。この分野は日本が進んでいましたから,「日本に追いつけ」という時代でした。結晶成長とかレーザーを作る開発研究に重きを置き,マレイヒルという本部と私がいたホルムデルというところの2つの研究所で,一緒に議論しながら光通信の実用化を目指していたわけです。ベル研究所は研究室が独立して動いていますから,ビジティングスタッフで行った私には相部屋でしたが個室がありました。しかし,実験室がすぐにできるわけではありません。そこでベル研究所の研究者と共同でやることになります。
面発光レーザーは結晶成長の技術に加え,非常に高い反射率を持つ反射鏡を付けないと発振しません。そのため,多層膜の反射鏡を付ける技術と電流を小さいところに絞り込む,そういう加工する技術などが全部そろっていないとできないのです。長期間いるわけではないという約束で行っていますから,装置を一から立ち上げるわけにもいかず,面発光レーザーの研究をするのは難しいと判断しました。そこで,研究室でも少しやっていたエッチングでレーザーを作る研究をすることにしました。やはりモノリシックにレーザーができるもう1つの方法です。ベル研究所に少しでも貢献するために,結晶成長技術を急速に立ち上げなければと,午前中は相棒だったBarry I. Millerと結晶成長をし,私がレーザーを作り変更点などの条件出しをやる。午後は午前中できたもののテストを行い,次に日の午前中は前日に作ったウエハーを使ってエッチングレーザーを作る,そういうことを毎日やっていました。共同研究者以外の人たちとも一緒に論文を書いたりもしていましたから,研究や人脈の幅が広がりました。
聞き手:ベル研究所に到着した初日,ロープがつるされた絵が飾ってあったそうですね。
伊賀:あれはベル研究所のマニュアルです。昔カウボーイはロープが縛れないと馬が逃げてしまいますから,そのよりどころとなるロープの絵が描いてあるのです。研究所のマニュアルの最初に,「working hour(どれだけ働くか)」という項目があり,「24hours a day(1日24時間)」,「7days a weak(1週間に7日)」と表記され,「研究者たるものは四六時中研究していろ」ということが助言として書いてありました。
聞き手:伊賀先生がコーヒーメーカーのスイッチを入れ忘れた時にも,ロープの絵が張ってあったそうですが。
伊賀:コーヒー当番は,帰り際にコーヒー粉と水を入れ,翌朝にコーヒーができるようタイマーをセットすることになっていたのですが,ある朝,ロープの絵が黒板に書いてありました。私がコーヒー当番を忘れており,米国では最大の罰となる「縛り首」を意味するロープの絵が書いあったのです。冗談半分でしたが,当番がさぼるとみんなコーヒーが飲めませんから,すごく怒られました。hung on treeです(笑)。
研究で大事なのは小さな達成感の積み重ね
聞き手:1979年の学会で,面発光レーザーが液体窒素温度でパルス発振したことを発表された時,「発想は面白いが実用化には厳しい」との評価だったそうですが,面発光レーザーの研究をやめようと思われたことはありませんでしたか。
伊賀:それはありませんでしたが,ものになるまで時間がかかるだろうという思いはありました。しかし最初に困ったのは,この当時は半導体結晶成長にも液相成長装置しかありませんし,より平坦な薄膜ができる分子ビーム成長装置などを購入する資力もなく,「面発光レーザー」という原理そのものが駄目なのか,実現するのに必要な技術がそろっていないだけなのか,ということでした。ですから,うまくいくかどうかが分からないと言ったほうがいいかもしれません。ただ,野球で言えば,ホームラン狙いで三振ばかりしていたのでは試合に出してもらえませんから,三振しても振り逃げで出るとか,何とか塁に出ないことにはやっていけません(笑)。従って,学界も同様で,論文も出せずに学会発表もできないのではプロとしてやっていけませんから,一方で理論の研究をするなどの努力をしていれば,それなりに成果がついてくるものです。
先ほどのベル研究所では半導体レーザーのエッチングでレーザーを作るファブリペロー共振器を作る研究を毎日やっていましたから,エッチングに関する技術はかなり上手になっていましたし,帰国した1980年ころにはインジウム・リン系の非常に薄い半導体の膜が作れることが分かってきたのです。最初に面発光レーザーを作ってくれた学生の雙田晴久君に話を持ちかけると,「先生,そんなのできませんよ」と言う彼を「まあ,やってみようよ」と口説き落とし,チャレンジしたところ,最初のアイデアに書いたとおりのレーザーができたのです。6μmほどの非常に薄い膜で,エッチングで基板を取り除いたレーザーでした。丸くきれいに光って,レーザーらしくしきい値もしっかりしていて,共振器が短く1つの波長しか共振しないものですから,スペクトルも非常にきれいなものでした。低温でしか発振しませんでしたが,これがブレイクスルーになりました。1982年のことです。
聞き手:理論的には間違っていないと確信できたのですね。
伊賀:原理は間違っていなかった,後は技術の問題であって,その改善をしながら進めていけば,面発光レーザーは実現できると思いました。この時,回折格子を中に埋めこんだレーザーで,単一波長で動作させる半導体レーザーを作ろうという研究もやっていましたが,面発光レーザーに集中することにしました。1982年ころからコンパクトディスク(CD)が登場し,ガリウムヒ素を基板とした780nm半導体レーザーが使われ始めましたので,ガリウムヒ素の結晶成長装置も独立に作り,ガリウムヒ素系の面発光レーザーと先ほどのインジウム系のものを並行してやることにしました。有機金属気相成長装置も手作りで製作し,研究室でも非常にきれいな薄膜で結晶成長ができるようになりました。当時助手だった小山二三夫君,今は教授で私の後継者ですが,彼は非常に腕がよくいいレーザーを作ってくれまして,1988年の室温連続動作の成功に至るわけです。
聞き手:研究成果への不安よりも,探究心のほうが勝っていたのでしょうか。
伊賀:その時々で小さな達成感があります。レーザーがピカッと光るとか,そういうのは学生諸君にとっても,私たちにとっても非常に感動的です。研究をやっていて,そういう達成感の積み重ねがすごく楽しいですね。大変ですけど。
特許の確保よりも産業の育成が先決
聞き手:1988年に面発光レーザーの室温連続発振を達成された後,国際学会でセッション部門が新設されるなど,毎回学会内で引っ張りだこだと伺いました。研究・開発の競争も激化していると思うのですが,面発光レーザーに関する世界特許がそろそろ消えかかっているのではないでしょうか。
伊賀:面発光レーザーの特許は,1979年ごろにマイクロレンズというものと一緒に出しました。私は40件ほど特許を出していますが,成立したものもありますし,当然切れているものもあります。面発光レーザーの特許に関してはほとんどが切れていますが,どこかの工場が駄目になるとか,差し押さえがあるとか,そういう話は聞きませんから,大丈夫ではないかと思います。多くの特許が出ていると思いますが,まだ,シリコンのLSIのような巨大な産業にはなっていませんから,産業をつくることが先です。
特許紛争などやっている暇はないということです。似たような話では,水晶振動子があります。これは,東工大の古賀逸策教授が発明したもので,腕時計や通信機,テレビなどに多く使われていますが,特許が成立していない面白いデバイスです。私が東工大に入った時,古賀先生は東京大学へ移られていましたので講義を聴くことはできませんでしたが,古賀先生の後継者である福与人八教授の研究室に助手として入りましたので,私も古賀研の流れをくむ一人なんですよ。古賀先生と同じ研究をドイツとベル研究所でもやっている人がいて,1932年に古賀先生の電気学会講演論文が出た数日遅れで,ベル研究所も発表したのですが,この数日の差がベル研究所の特許を阻止したのです。日本の学会で発表することが,いかに大事か分かると思います。米国の学会で発表するよりも先に日本の学会で発表してあれば,後から海外で特許を出されても,保護されますからね。
以前の国立大学は国の予算で「皆さんのために」研究するという意識でしたから,私はアイデアなども学会で発表してきたわけですし,特許で何とかしようという考えはあまりありませんでした。学会で発表してしまえば,公知の事実になりますから特許は取れませんし,「特許は取れないほうが発展する」という考え方もあります。後は技術や使い方の勝負になれば,産業は発展するわけですから,それはそれでいいのではないかと思います。特許を取るのは大変ですし,当時はそういう雰囲気でもありませんでしたから。今は状況が全く違い,国際的にも日本の知財戦略がありますから,大学の知財もますます重要になってくるでしょう。学長としても,「知財は大事だ」と考え,知財関連の部署をつくったりしています。
1989年の世界情勢が面発光レーザーの研究を加速
伊賀:1988年にわれわれは面発光レーザーの室温連続動作に成功するのですが,その直前の7月に,Jack L. Jewellが東工大を訪ねてきたことがあります。私がベル研究所にいたとき隣の部署で光コンピューターの研究が行われており,彼は面発光レーザーの研究をしていました。その彼が今年も156km富士ウルトラトレイルマラソンンに出場するため来日し,その帰りしなに東工大を訪ねてくれました。彼は1988年に富士山に登って撮ったご来光の写真を「面発光レーザーはこれだ」と言って,学会などで発表するなど面白い人ですが,われわれの1年遅れの1989年に,彼らも室温連続動作に成功したのです。この1989年はベルリン壁が壊れ,東西関係が氷解した年です。ソビエトがなくなって冷戦が終結したことで,米国は,ミサイルを打ち落とすためのエックス線レーザーの研究などが不要となり,防衛予算を産業用に転換し始めました。その1つがシリコンバレーです。日本ではコンピューター開発の国家プロジェクトが成功していましたから,米国はそれを見て,シリコンバレーをつくったわけです。
そしてもう1つは,いろいろな光エレクトロニクスに投資を始めました。DARPA(Defense Advanced Research Projects Agency,米国防総省高等研究計画局)がレーザー・レーダーのようなアレイ技術を重要視し,これにあたる面発光レーザーに着目して光エレクトロニクスのセンターをつくろうと,1990年から応募を始めました。カリフォルニア大学のサンタバーバラ校やマサチューセッツ工科大学,イリノイ大学など複数の大学がグループをつくって,ワシントンのDARPAに申請しました。どのチームも計画が非常に面白いというので3つとも採択され,日本で言うところのCOE(center of excellence,中核的研究拠点)をつくったのです。UCサンタバーバラ校は,ベル研究所から多くの仲間が行っていましたので,非常に強力なチームでした。一方,欧州ではEC(現EU)が連携を取って,ベンチャーの立ち上げを計画し,新しい分野の研究を始めるようになりました。「ベルリンの壁崩壊」以降,大きなお金が出るようになり,面発光レーザーの研究が加速したのです。私も毎年夏にはサンタバーバラに行き講義を行ったり,欧州の大学を回って「面発光レーザーは面白いよ」と行脚の旅をしたわけです。ですから,1990年代から10年ほど『Applied Physics Letters』の各号のトップ論文に「面発光レーザー」が続いたほどです。多くの研究者が参入し,どれだけしきい値の小さなレーザーができるかなどの競争がものすごく盛んになりました。
聞き手:ベルリンの壁が崩壊していなかったら,面発光レーザーがこれほど発展しなかったかもしれませんね。
伊賀:急激には発展していないかもしれません。もっとゆっくり来ていたと思います。
技術や環境の進展で予想を超えた「もの」が誕生する
聞き手:面発光レーザーは現在,ギガビットイーサネットへの活用が広がり,面発光レーザーを組み込んだモジュールなどが1兆円規模を超える産業になりつつあります。今後どのような展開になると予測されますか。
伊賀:研究論文はたくさん出ましたが,まだ産業になっているとは言えません。インターネット自体は先ほどのDARPA(前身・ARPA)で1957年に発明されていましたが,使えるようになってきたのは1995年ごろからです。光通信の発展により,1990年ごろに海底ケーブルが光ケーブルとなって通信が大容量にできるようになり,1995年ごろからのパソコンの普及で,ようやくインターネットが使える環境になってきました。そこから4,5年たち1999年にインターネットが爆発し,大学や会社でLANの高速化が必要になり,面発光レーザーが使われるようになってきたのです。一方,1980年代半ば,IBMは通信に,ベル研究所はコンピューターに乗り出したいという思惑があったのですが,この当時,米国政府は独占禁止法の適用を厳しくしており,ロビー活動などもあったそうです。結局,ベル研究所は分割されることになりました。それでIBMでは,光ファイバーとCD用のレーザーを使ってLANを作ろうということになり,日本からCD用のレーザーを取り寄せるなどし,10年ぐらい研究をしていましたが,通信には室温より高い80℃以上の温度で長持ちしないと使えないという厳しい要求があり,CD用レーザーは使えないということになりました。そうこうするうちに,面発光レーザーの性能が上がり,インターネットの普及もあって,100Mbit/s以上の高速LANが必要とされ,ここに「面発光レーザーが使えないか」となってきたのです。
また,LANの高速化に伴いストレージエリアが大きくなってきますから,ここにも面発光レーザーとファイバーを使った光の配線が使えるとして,1990年代にLANとSAN(storage area network)に面発光レーザーが大量に使われるようになりました。一方,西海岸のヒューレットパッカード(HP)も,面発光レーザーの研究を始めた矢先でした。ところが,HPも測定器部門とコンピューター部門に分割され,面発光レーザーの研究は中止となりましたが,ただ1つ,コンピューターのマウスに面発光レーザーが搭載されることになったのです。2012年冬の国際会議において,レーザーマウスは現在10億個ほど生産されていると発表があったそうです。
もう1つ,マイクロレンズの話をしなければいけません。棒状のファイバーで画像を伝えることを研究していましたが,レンズのアレイも同様に細長いものを切り,1つずつ磨いて整列しなければならず,何とか効率的な方法はないものかと思っていました。
ベル研究所に行っている最中にロチェスター大学で国際会議があり,私はプラスチックでファイバーを作った話をしたのですが,この時,ファイバーを使ったコピー機などの発表も聴きながら思いついたのがマイクロレンズアレイでした。ガラスの基板上にマスクをかけて小さな穴を開け,そこから屈折率が高いイオンをしみ込ませ拡散すると,椀状のレンズができるのではないかと,突如としてひらめいたのです。ベル研究所ではレーザーの研究をしていますから,すぐにはできません。1980年3月には派遣期間が切れますので,家族をニュージャージーに残したままいったん1人で帰国し,東工大の研究室で1週間ほどゼミを行い,「マイクロレンズを作ろう」と言い残して,再びベル研究所に戻りました。研究室に新しく入ってきた及川正尋君がマイクロレンズの研究を始めてくれ,プラスチックで作ったところ「ちゃんとレンズになった」と連絡をもらい,国内誌や米国の雑誌に論文を投稿しました。新しい用語として「microlens」と一続きで表記したのですが,必ず「micro-lens」とハイフンが入って返ってきました(笑)。ずいぶん抵抗して,1つの用語だと認識してもらったのはずいぶん後のことです。画像の伝送用に複数のファイバーを1本に収めたリボン・ファイバーも登場し,それを一括接続するようなレンズも必要になり,日本板硝子と共同研究を行ってマイクロレンズが実用化になるところまできました。1990年代ころだったと思いますが,このマイクロレンズアレイを液晶プロジェクターに搭載しようと日本板硝子とシャープ(株)が共同研究を始めました。3cm×4cmほどの液晶画面に光を当て画像を投影するわけですが,液晶の電極が張ってあり,全部に光を当てると半分ぐらい光が失われるのです。そこで,液晶の窓のところだけに光を通せば光の透過効率が相当良くなることが分かり,マイクロレンズアレイが液晶プロジェクターに搭載されたのです。その結果,真っ暗闇でないと見えなかった液晶プロジェクターが,割と明るい部屋でも使えるようになりました。実用化になり,「うまくいった」と思っていましたが,工業はいろいろな点で弁証法的に破壊的技術が必ず出てくるものです。型にはめて作る安価なマイクロレンズが量産されるようになり,拡散型のものはコスト的に引き合わず廃れていきました。しかし,そのマイクロレンズアレイの考えは今でも生きていて,液晶のプロジェクターに使われています。
その他にも,コピー機やプリンターにレーザーを使いポリゴンミラーを回転させてスキャンする技術が開発されてきました。米ゼロックス社が6000個ほどのレーザーアレイを並べた研究を,日本の富士ゼロックス(株)は,私の後継者である小山教授と共同で面発光レーザーを使ってレーザープリンターを高速化する研究を始めました。しかし,高速プリンターにするには,相当出力の高い単一モードのレーザーでなければならず,何とか1024個のレーザーアレイを作るところまできたのですが,プリンターは1個でもレーザーが欠けると線が入ってしまいますから,1000個以上のレーザーアレイを搭載するのは無理だとあきらめることになったのです。しかし,私が富士ゼロックスの小林陽太郎社長に,「何とか少人数でも,研究を続けてみてはいかがだろうか」と手紙を差し上げたこともあってか,研究が継続となり,その結果,4×8のレーザーアレイを搭載した大型レーザープリンターが2001年に完成したのです。日経新聞にも全面広告が出ました。小型機にもレーザーアレイが搭載されるようになり,最近キーテクノロジーになったと言ってもらいました。また,研究生だった佐藤俊一さんが開発したリコーのプリンターにも搭載されるなど,だんだん産業として広がってきています。
通信のカテゴリーで見ると,飛行場や駅などの大型ディスプレイに高精細の動画を映す際,コンピューターから転送する速度は10Gbit/sぐらいは必要ですから,10本ぐらいの光ファイバーでやることになります。そこに面発光レーザーが使われ始めています。韓国のベンチャーに,私の友人でもあるHyun-Kuk Shin社長が起こしたオプティシス(Opticis)というデジタルビデオインターフェースを手掛ける会社がありますが,すでに光ファイバーと面発光レーザーを活用した配信システムをソウルの地下鉄の駅に導入しています。
ライフの分野では,繊細な動きをするロボットを遠隔操作しながらの手術や,内視鏡を使った手術の際には大画面での確認が必要になってきます。このような場面での動画配信には,電気を介在せず,安全性の高い光通信が適していると言えます。
ディスプレイでも,レーザーを使ったものは3原色がうまくできれば色味や光沢なども非常にきれいに表現できるようになります。面発光レーザーは消費電力が小さいので,マイクロディスプレイなどの応用に適しているでしょう。面発光レーザーに限ると,赤は問題ありませんし,青はこれからやっと面発光レーザーができつつあるというところです。現在,台湾のS. C. Wang教授の研究室が青の発光レーザーではトップですが,UCサンタバーバラの中村修二教授のところでも性能がいい青色の面発光レーザーができたそうです。しかし,緑がなかなかできません。技術的に難しいものがあります。普通のレーザーでも難しいですね。しかし,いろいろな波長ができてくると,イノベーションが起きてくるのではないでしょうか。何か新しいものを作っておくと,誰かが面白いことを考えるものです。想像もできなかった応用が出てくるのが楽しみですね。
原理・基礎勉強をやり脳の切り替えを訓練すべし
聞き手:今後の光エレクトロニクス分野を担う日本の若手研究者,技術者,そして大学生に「光」の魅力などメッセージをお願いします。
伊賀:これからは「光の時代」ということもあると思います。まず,太陽の光を使うエネルギーの分野については,これからやらなければいけないでしょう。太陽電池が1つの代表例です。これはレーザーとは違い,逆に光を受けて電気を作るほうですから,逆側の光エレクトロニクスの分野として非常に大きい分野になるのではないでしょうか。光エレクトロニクスがいろいろな点で広がってきて,エネルギー,環境,ライフのみならず,農業などの思ってもみなかったような分野への発展があると思います。皆さんには,大いに勉強して,新しい分野を開拓してもらいたいものです。私が面発光レーザーを考えついたときにレーザーマウスに応用されるようになるとは思ってもみませんでした。想像の域を超えています。これからの人は,このように思ってもみない分野に挑戦してください。
私は趣味でコントラバスを弾いていますが,面白いのはレーザーの共振器と楽器の原理が非常に似ていることです。モードロックレーザーと,特に弦楽器におけるヘルムホルツ波は非常に似ていて面白いことが分かります。1つのことを一生懸命やるということもいいのですが,音楽に限らず,仕事以外に趣味を持ってやるのもいいかもしれません。私の場合は,音楽を通じて人的なつながりも広がりましたし,また脳内のスイッチを切り替えるトレーニングにもなり,非常にいいのではないかと思います。今,博士課程の教育システムを改善しようとグローバルリーダー教育院(AGL)を2011年4月につくりました。文部科学省のプロジェクトもあり,東工大でも3つのプロジェクトのリーディング大学院というものを推進しています。原子力と環境エネルギー,そして生命情報で,2012年からAGLも参入します。
理工系の大学として東工大を選び,理工系の研究をして「面白い」と思う。それはいいのですが,「一生その分野でやるのか」というと,そうでもないと思います。世の中にはいろいろと大事なこと,面白いことがあります。その時に,脳のスイッチを切り替えないと,柔軟性が出てきません。「これしかやりません」,では困ってしまいます。そこで,東工大ではいろいろな分野の道場を設け,自分の専門以外の話もディスカッションするような場をつくっています。脳の切り替えのトレーニングをしておけば,卒業してどんな場面になっても柔軟に対応していけますからね。
聞き手:若い人達に向けて一言。
伊賀:「原理,基礎の勉強を一生懸命やり,その上でいろいろなことを考えるべし」ということです。そこに面白みや深みが出てきますからね。東工大の規則第1章に「深奥を究め」という表現もあります。光を大いに勉強し,新しいことを考えてほしいと思います。
(OplusE 2012年11月号(第396号)掲載。肩書等は掲載当時の情報です)