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ツキ ガ アカイ デスネ 陰謀論はパラノイアの浪費である

そもそもはアイラブユーを日本語にできるのかという問題があった

二回目のワクチンを打った

打つ前から微熱があって、嫌な汗をかいていた

シャツが汗を吸って重くなっていた

気温が30℃を超えると記憶力が落ちる

一度、行ったことがあるのに診療所の場所を忘れてしまっていた

予定の時刻は5時だったが、余裕をもって外に出たのにギリギリの時間になってしまった

その間、芥川龍之介の小説の朗読をイヤホンで聴いていた

この小説自体はとても面白かった

昔の日本のインテリは、随分と気取った言葉遣いだったのだなあ

本間さんは白葡萄酒の杯を勢いよく飲み干すと、色の出た頬をおさえながら、突然、
「先生はスケプティックですね。」と云った。
 老紳士は鼻眼鏡の後うしろから、眼でちょいと頷いた。あの始終何かに微笑を送っているような朗然とした眼で頷いたのである。
「僕はピルロンの弟子で沢山だ。我々は何も知らない、いやそう云う我々自身の事さえも知らない。まして西郷隆盛の生死をやです。だから、僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。僕は若い時に、小説家になろうと思った事があった。なったらやっぱり、そう云う小説を書いていたでしょう。あるいはその方が今よりよかったかも知れない。とにかく僕はスケプティックで沢山だ。君はそう思わないですか。」

ピルロンって誰よ?

こういった知的風土から例の“月が綺麗ですね”が生まれたのか?

この小説は例の“信じるも信じぬもあなた次第”の原型かもしれない

にしても、この小説の時代設定が明治晩期であったにしても、西南戦争からまだ30年くらいしか経っていないのに、すでに大昔のことになってしまっていたのだなあ

あるいは、当時、あの維新という出来事をより遠くにやってしまいたいという心理があったのだろうか?

美しい日本

美しい歴史か

今となってみれば嫌な感じだ

しかも懐疑主義者が美しい歴史とは奇妙な話ではある

さらにいえば西郷隆盛は明治政府からすれば明らかに敵なのである

西郷隆盛という象徴的な父を殺してしまったことによる罪悪感

そして英雄としての祭り上げ

美しい日本の歴史への編入

殺戮の完全な隠蔽

神話化

そして現代における再神話化

この時代から美しい日本は間違いなくビジネスだったのだろう

カツモトか

なんか強力ワカモトっぽい

9月24日は西郷隆盛の命日なのだそうだ

鉄道という理不尽

街外れのプレハブ小屋で汗でびっしょりになったシャツを脱いで肩を出した

打ったあと、別の小屋に移動してしばらく様子見をする

その小屋が密だった

やれやれ終わったわいとばかりに小屋を出て近くのコンビニのイートインコーナーに向かう 

途中の踏切で長く待たされて苛立つ

何のアレで鉄道はこんな理不尽を僕に強いているのか?

考えてみれば、かつては踏切なんかなくても、列車が来てなければ歩いてどんどん線路を渡っていたものだった

それを咎める人などいなかった

まして公安にチクられて書類送検なんて

市民はいつから行動力を失ったのか?

僕はこの“従順という病”を強く警戒しているが、賛同を得られたためしがない

要はコスパが悪いということらしいが、そんな低次元の功利主義に支配されていいのか?

つのる苛立ちの突破口はどこにも見えない

市民が線路を渡らなくなったのは、それが危険であることを認識したからでは?

それれはそうだが、市民としては何らのレジスタンスをしたいのだ

何ができるんだ?

やられっぱなしなのか?

そうこうしているうちに遮断器はあがった

極端な体調の変化はなかったが、それでもイートインコーナーに小一時間停留した

むしろ一回目より副反応はない感じだ

ただ抗体ができるのはこれからなので安心はできない

イートインコーナーにいた先客が店を去るまで気を抜くことはできなかった

ワクチンによる健康被害はあるし結果、亡くなったとしても政府は因果関係を認めないだろう

少なくとも30年は認めないだろう

それでも打つと決めたのはこれ以上、警戒心を保つのが嫌になったからだ

もう我慢出来ない

もう耐えられない

とはいえ今後も警戒を解くことはできないのだが

“目覚めた市民”はマイクロチップを埋め込まれ思考を操作される、というだろう

しかしマイクロチップはワクチンだけに入っているものなのか?

イートインコーナーで軽く喰う

蛋白質を摂るために鶏肉のスティック

腸内環境をよくするためにヨーグルト

クールダウンのためにアイスクリーム

とりあえずの満足を得た

次は市民体育館のベンチで缶コーヒーでも飲もう

赤い月と偏執狂

体育館のベンチには先客がいた

こういうちょっとした番狂わせが心にくる

地表のすぐ上に気味が悪いほど大きな月が見えた

ははあ先客は月見を愉しもうという魂胆なのだな

僕は大勢がやることには反発する質なので、月など見たくなかった

いや月なんか見ない方がいいのだ

あまり月をみてると気が変になる

ルナティックという言葉は狂気を意味している

そういう文化圏もあるわけで、月の受け取りも様々だ

アポロが月についたときイランでは怒号が飛び交ったという

アメリカの野郎 神聖な月を穢しやがって

イスラム圏では月は神聖なものなのだ

月は神聖で狂気をはらんでいる

そんな月を眺めて酒でも呑もうというのはいかにも呑気な話ではある

夏目漱石がアイラブユーを日本語にするなら私はあなたを愛しますではなく“月が綺麗ですね”と訳すとよいといったという俗説がある

美しい歴史ならそれでいいのかもしれない

しかしロンドンで文字通りの狂気に陥った漱石がそんな呑気なことをいうだろうか?

自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑なめらかな縁ふちの鋭するどい貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿しめった土の匂においもした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。

漱石は貝の裏に“月の光”が差したという

何故か二回、繰り返している

大事なことだからか?

この小説の主人公が直接、月を見たならば話は変わってしまったのではないか?

改めて読み返すと夢十夜の最初の話はどこかエロチックな感じもする

エロスとタナトスが入り混じっていてエドガー・ポーを連想させるが、僕が真っ先に連想したのはウィリアム・ホープ・ホジスンの異次元を覗く家だった


この二つの小説は1908年に発表されている

しかも両者には重要なキャラクターとして豚が登場する

ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹びんろうじゅの洋杖ステッキで、豚の鼻頭はなづらを打ぶった。豚はぐうと云いながら、ころりと引ひっ繰くり返かえって、絶壁の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと一ひと息接いきついでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦すりつけに来た。庄太郎はやむをえずまた洋杖を振り上げた。豚はぐうと鳴いてまた真逆様まっさかさまに穴の底へ転ころげ込んだ。するとまた一匹あらわれた。この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、遥はるかの青草原の尽きる辺あたりから幾万匹か数え切れぬ豚が、群むれをなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸めがけて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は心しんから恐縮した。けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻頭を、一つ一つ丁寧ていねいに檳榔樹の洋杖で打っていた。不思議な事に洋杖が鼻へ触さわりさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。覗のぞいて見ると底の見えない絶壁を、逆さかさになった豚が行列して落ちて行く。自分がこのくらい多くの豚を谷へ落したかと思うと、庄太郎は我ながら怖こわくなった。けれども豚は続々くる。黒雲に足が生はえて、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵むじんぞうに鼻を鳴らしてくる。
 庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を七日なのか六晩むばん叩たたいた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻こんにゃくのように弱って、しまいに豚に舐なめられてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。

この豚の不気味なクリーチャー感は異次元を覗く家のそれと奇妙なほど類似している

ただ漱石がこの奇想天外な怪奇SFを読んだ可能性はあるのだろうか?


月に関する話でもっとも奇怪なものはグルジェフの月は人間を喰っているという説だろう

月が直接、人を喰いにくるわけではない

月は人間の精神的苦悩を食しており、そのことによって宇宙はバランスを保っている、というのである

より正確には精神的苦悩から生じるエネルギーが月にとって必要不可欠なものなのだ

なにしろ月はそのエネルギーがないと存続できないのだから

これは宇宙全体のシステムからして苦悩が不可欠であることを意味している

そして人は地球に生きる限り苦悩し続ける

月のバッテリーであり続ける

ごく一部の人々はこの仕組を見抜き苦しみから脱する

そういう寓話である

地表すれすれにあった月は気球のようにぐんぐん上昇していった

そうやって、月に関する妄想をたくましくしながら自転車をこぎ続けた






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