滝行とサニヤシン①
もう20年以上も昔のことだが漠然と滝行に興味をもっていたことがあった
ある雑誌に滝行などのハードな修行をしている人の連載があって、真冬にひとりで山奥で滝行をしたさいに生じた心身の変容の仔細が述べられていて興味をもった
あれはなんという名前の雑誌だったろう
もはや雑誌の名前もルポライターの名前も思い出せない
その文章は、修行者用のいわば俗な滝を離れてより野生の人が入らない滝へ向かっていくところで終わっていた
その頃、やはり山奥の自宅を開放してゲストハウスにしていたサニヤシンの方がいて、何度か出入りしていた
サニヤシンというのはヒンディー語で修行者、遊行者のことだが日本でサニヤシンといえばラジニーシの弟子のことを指す
ラジニーシの教団はオレゴンで大問題を起こしたが、日本でカルト化したという話は聞かない
日本ではカルト化以前の問題としてサニヤシン瞑想をしない問題?というのがあって、あーサニヤシンなんですね、ということは毎日瞑想なさってるのでしょうね?、いやしてません、瞑想はまったくしてませんというヤリトリがあったりした
瞑想をしてない、というのはいくらか含みがあって、自分は瞑想とかそういうのはする必要ないですから、そういうステージじゃないんでというニュアンスがあった
だがそれ以前の問題として、ラジニーシに興味をもつような連中は修行に興味があるんだろという前提そのものがおかしいのだということに気づかされた
最初から瞑想とかに興味がないただラジニーシが好きなだけというタイプが多かったのだ
ただラジニーシを熱心に愛するということも一種のバクティヨーガといえなくもないのでこれは瞑想というものをどうとらえるか?という問題なのだと思う
ともあれ個人を熱心に崇拝するという習慣のない僕にとってはそれは縁遠い世界であった
自宅をゲストハウスにしているサニヤシンの方は瞑想をするタイプの人だった
ちなみにここでいう瞑想とはラジニーシが考案したダイナミック瞑想などの瞑想のことである
このダイナミック瞑想というのが結構クセモノで瞑想法としてはたいそういいものなのだが、からだをめちゃくちゃ動かすとか大声を出すものなのでやれる場所が限られるのだった
要は人里離れたところとか防音されているところでしかできないのである
最近のことはわからないが20年前の東京にあったラジニーシ系のサークルで防音設備のある部屋を備えているところはなかった
なぜからだを動かしたり大声を出すのか?というとそれが瞑想の準備なのである
ラジニーシの考えだと一般人が瞑想に入れないのは、心のなかに解放されていない感情や衝動が大量に溜まっているからで、それを一度吐き出さないと自然にスッと瞑想には入れないのである
伝統的な瞑想法はこういったカタルシスを考慮していない
伝統的な瞑想法は長年、戒律を守り清浄な生活を送っていて心のなかに汚物がなにもない人を対象にしている
清浄とはいえない精神生活を送っていてる一般人が、カタルシスなしに瞑想をしようとすると普段は抑圧している心のなかの汚物と激しく衝突することになる
いきなり座禅をやってもつらいだけなのはそういった理由による
ただこういうことは人によりけりで、心に汚物が溜まらないような生活が自然とできてしまっている人もいるので、そういう人は伝統的な瞑想法でも上手くいくようだった
しかしそういう奇特な人は別として普段は抑圧して意識に触れないようにしている煩悩と正面衝突してみるのも悪くはないと思う
もちろんそれをやって気が狂ったとしてもなんの責任もとれない
ただ、もうこんな人生終わらせちゃってもいいという覚悟が出来たら挑戦するべきだ
とはいえそんな覚悟で瞑想しようとする人は極めて少数だとは思うが
プーナ、今はプネーというらしいがそこのラジニーシのコミューンでは日本人だけ特異的にカタルシスができないという噂があった
日本人だけが感情を出せないという現象が起きていたのである
プーナのコミューンには日本人が多かったので問題になっていたらしい
これはオカルト的に説明している人がいたが日本社会における殺人がほぼ家庭内で起こっていることを考えるとそうなるだろうなと思う
1977年に徹子の部屋で寺山修司は日本の殺人の4割が家庭内で起こっていることととただただ内に向かう日本人のメンタリティを指摘している
45年後の日本社会ではその比率が8割に達している
ラジニーシのサークルでは何十回もダイナミック瞑想をしたという人も多かった
わたしらくらい熱心にやってるのって珍しいんじゃないという感じだった
ただそういう彼らもカタルシスがうまくいってなかったのかもしれない
さて、脱線したが、あるときそのゲストハウスに古神道をやっているという若者がやってきた
②へつづく