芝浦GOLD, Relight My Fireという蜃気楼
ダンスクラシックスで知らない人はいない「Dan Hartman - Vertigo, Relight My Fire」、いま想えば、あれは非常に特別なタイミングでかけられていた気がする。例えば、NYから戻ったDJ中村直がプレイしていた芝浦GOLDのゲイパーティでは深夜最後のピークという、まさに一晩の高みに捧げるお神輿だった。実際仲間内ではふざけて「最後のお神輿来た」などと言い合っていた。※毎回かかる事はなく、インストもプレイされた
好きな曲には心を揺さぶられ、その敬意や思い出が押し寄せるのであまり家で聴かない方だが、その中でもRelight My Fireは年に数回ぐらいしか聴かないほどの重みを感じる曲で、クラブでもヒットパレードのついでにかけられたり、気分が乗らないとフロアから去りたくなる。(突然のモノローグ)一番好きというわけではないのに。
「クラブムーブメントの終焉」
クラブムーブメントは去るべくして去ったと思っているが、自分にとってブームが去った後はそれはもう寂しいもので、クラブはだれも知らない曲を期待していない場所に変わってしまったかのように見えた。仲間とワイワイ楽しめる事が重要なのは変わらないが、明らかに皆の場や音楽への期待度が違うし、あくまで一晩の1パートとして楽しむ方が増えた。
国内最大にてエクスクルーシヴだったユキさんと中村直の黄金のNYコンビであるプライベートパーティが終わった後のシーンは、サーキット・マッチング系へと舵切りし、アゲハのように年に数回の大型イベントでもないかぎり、なかなか一晩そこにいるお客さんは少なくなった気がする。かつてクラバーと呼ばれた層も少数派となった。
「クラブというシェルター」
その背景には出会い方や娯楽が移り変わった他に、LGBTへの理解やHIV治療が進んだ事もあるように思う。
区のパートナーシップや同性婚裁判、差別防止の条例誕生など、1990年と2020年ではゲイを取り囲む状況が全く違うのである。
若いLGBT当事者の多くにとっては、差別で職場を追われたり、襲われて怪我や死に至る事は90年代ほど起きていないのかもしれない。いまのように議員のLGBTへの差別発言が問題になったり、企業もハラスメントとして認識すらしていなかった時代。ニュースキャスターまでもが同性愛関連のニュースに「気持ち悪いですね」と余計なコメントを足し、他のキャスターを慌てさせていた。
ゲイ狩りで襲われて大怪我をした方、HIVで苦しみ生還する方と亡くなる方も周りにいて、(まぁそこはクラスタ次第なんだけど)ゲイライフは常に警戒と注意を必要としていた。自分にとって同性愛者の死とは、一歩踏み外せばすぐそこに漂っているものだった。月一度の、日本最大のゲイパーティがシェルター的側面を持っていたのは、月曜朝まで大勢のお客が残っていた事が証明していたように思う。(一般の人が興味本位に遊びに来てそのまま日曜朝までクラブにいた時代、しかし月曜朝までの滞在をクラブムーブメントだけで片付けるには無理がある)
「シェルター・House of Xtravaganza Tokyo」
ここでもう一つのシェルターの話を。GOLDは二つの顔を持っていた。平日から土曜の通常営業と、月一で日曜に開催されるゲイのパーティだ。当時通い出した理由にヴォーギング見たさがあった。シーンのエッジにいた、Xtravaganzaと名乗るゲイのヴォーギングダンサーたちが、マドンナのバックダンサーばりにトリッキーな技を決め、フロアを練り歩くのは意外な事にストレート客で賑わう土曜だった。これは、それぞれのパーティやDJの音楽性が白人と黒人文化に分かれていた事もあるかも知れない。中村直がNYで回していたTHE SAINTとは白人のパーティ文化で、ユキさんのプライベートパーティもその系譜、そして土曜のGOLDはガラージ中心の黒人文化寄りな音だった。面白い事に、Xtravaganzaが踊るような楽曲を引き受けていたのは高橋透さんや木村コウさんで、あの頃のGOLDは二つの文化のエッジが揃っていたのである。
(インスタ:写真はXTRAVAGANZAのアントニオはん)
そして、ハウスミュージック界隈でよく耳にする「House of ●●」、これはNYのマイノリティ達が身を寄せ合うグループをハウスと呼び、そのファミリーの代表がその面倒を見てきた経緯があり、GOLDにたむろっていたXtravaganza Tokyoもそういうコミュニティの系譜なのだ。
詳しくはドキュメンタリーフィルム「パリ・夜は眠らない」や、近年ではハウスの成り立ちを描いたドラマ「POSE」が参考になるだろう。
東京のそれは普通のダンスチームでストレートのメンバーも含み、身寄りのない人々の面倒を見るスタンスではなかったが、元々、中流家庭が多く米国ほど貧富の差はなかった日本には、ハウスのように身元まで引き受けるような救済システムは生まれにくかったかも知れないし、通常入場料4.5k円程を払う娯楽施設では、本当にハウスを必要とした窮するLGBT当事者との接点は生まれなかっただろう。しかし、メンバーや、中村直と行動を共にするようになると、たしかに自分は面倒をみてもらっていた。マイノリティ達は自分が属したグループのように、声明こそ出さないがそのような形で自ずと助け合っていたのではないかと思う。
また、自分は今のシーンの基盤となった人々の存在も広義ではシェルターの一部だと思っている。特に東京のシーンを語るにあたり、あの時代にユキさんや中村直、吉田さんなど、重鎮が三人もGOLDに揃っていたのは大きい。
新宿二丁目にクラブ、Bar Delightを構えた昭美(あきよし)さんもその一人、彼にその機会を貰えたDJも多かった。これだけLGBT逆風の中、ゲイカルチャーが育まれたのは彼らや、他のオーガナイザー、クラブ関係者に守られ、支援されて遊び場を提供してもらえたからなのは明らかだ。
(インスタ:写真左がGOLD RUSH、かつTHE PRIVATE PARTYのオーガナイザーことユキさん)
「もうシェルターはいらないんだ…」
90年代、バブルの鱗粉の中を東京のゲイたちは、差別や一向に進まないHIV治療への恐怖を前に、我を忘れ朝まで踊っていた。いまの自分は、短いスパンで何度も盛り上あがるパーティや人々、社会のLGBTへの取り組みを横目にクラブに通い続けている。
この30年でシェルターとしてのクラブは徐々にその役目を終えつつあるが、代わりにいまの方がゲイとしての人生の未来を感じられる。
そんな中でも、ふと忘れたころにあの曲がかかり、その08:45以降、最後のヴォーカルが消えたストリングス伴奏の中で目蓋を閉じれば、そこにはミラーボールに照らされた芝浦GOLDの壁一面の巨大なスピーカーや、月曜朝だというのに大勢の人影が無心に踊る刹那、そんな蜃気楼が浮かび上がり、いまはもう会えない者たちが郷愁をかき立てる。
彼らはいまに辿り着けただろうか?
あの頃の東京とクラブは、確かに自分の第二の故郷でシェルターだった。
おわり
「自分にとってのシェルターとは」
実は、東京がゲイのシェルターである事を自らが証明しまう事件が起きた。
帰郷が元で2000年代から十年以上、複数のストレートにストーキングやアウティング、中傷と個人情報流布などの嫌がらせの末、最終的に殺害予告を受け傷害事件となり、警察が介入するヘイトクライムに発展した。
内容的には、職場の差別やハラスメントに起因する転職(都内)が成功した事に対する妬みで、性的指向を攻撃に利用された形となった。相手は非常に嫉妬深く卑怯な人間で、他人に攻撃をさせ共犯者にして犯行を重ねていた。
ご存知の通り、世の中には天才などいくらでもいるし、上流へ行けば行くほど世界の広さを知り、人は謙虚になるものではないだろうか?つまり、相手が上流の人間ならば、あるいは仮にも上を目指した人間ならば、無名な俺など目に入らず、差別や犯罪を重ねるリスクを理解し「割に合わない」と判断したはずである。その視野の狭さや、偏執的な嫌がらせにリソースを注ぎ込んだ事から、対話不能なまでに認知の歪んだ人物像が浮かび上がる。このような相手でも、自分は強く人間関係に恵まれたので生き残れたが、いまもクラブや音楽にシェルター的側面を求めているし、自分のような体験をした人間の力になりたいと思っている。
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