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研修医日記➄〜筆が止まった総合内科

ご無沙汰しております。

去年の夏以降、更新してなかったのは、大っぴらに言えないようなことを考えていたからです。

初期臨床研修医は、1-2か月ごとに各診療科を回ります。私は夏に外科を回った後、秋は総合内科にいました。診療科ごとに思ったことをnoteを書く予定でいたのですが、総合内科で思ったことは容易に口外できるような思考ではなかったので投稿しづらく、半年がたってしまいました。

総合内科で気づいたこと、それは「死は救いになりうる」ということでした。
もっとマイルドに言うなら、「死は悲しいことかもしれないが、悪いことではない」。

皆さんは、寝たきりの高齢者を見たことがありますか。喋りかけても「うーあー」しか言えない。骨と皮だけになった手足は、拘縮といって凝り固まってしまって動かない。肌は乾燥していて触れば鱗粉が飛ぶ。ご飯は食べられないから、胃瘻という胃に開けた穴や鼻に入れた管から白い液体を流し込む。排泄はオムツにするから、いつも異臭がする。そんな状態で何年もベッドで横たわっている方たちのことです。

1人一個はカメラを身につけている時代なのに、決してスマホにもテレビにも映らないその姿。医学生の実習ではじめて見た時は、うっとなりました。むごいと思いました。

うちの総合内科に入院してくる患者さんもそんな方が多いです。高齢者は免疫が弱くって、すぐ肺炎や尿路感染症になります。なので入院して抗菌薬を点滴で落とすことになります。

認知症の患者さんに協力や理解なんてしてもらえる訳なくて、暴れられても引っ掻かれても無理やり血管に点滴入れて、鼻に管を突っ込んで、自分で管を抜かないように手足をベッドにくくりつけて、治療して、退院させる。

でも結局、高齢で体全体の機能はボロボロなので、同じ感染症になって帰ってきて。

内科で研修をはじめたころはまだ新しいことばかりで一生懸命でしたが、同じことを繰り返しているうちに、自分がしていることが正しいのか、疑問を感じるようになりました。

治療をすることは、患者さんの苦しむ時間を増やしてるだけなんじゃないかって。

嫌がって暴れる患者さんの鼻に、ごめんねごめんねって言いながら1人で管突っ込んで、その後泣きました。

患者さんを長生きさせようとするのって、死を忌み嫌う周りの人のエゴなんじゃないのかな。私がもし寝たきりだったら、こんなことされたくないです。死ぬんだったらそれでいい。

 医者も看護師もみんな20-40代で、そんな若者が寝たきりで喋れない90歳を91歳にするために日夜働いて。それが本人の幸せになってないんだとしたら、ただ医療費と労働力を使って拷問してるだけじゃないですか。

でも幸せとか、生きる意味とか、人それぞれで定量化できないし推し量れないから厄介で。

命を大事にとか、若者と老人で命の重さは変わらないとか、そういう清潔感あふれる正論の前では私の思ってしまったことなんて汚くて悪魔的で、自分で自分が怖くなります。

でもやはり私は長生きさせることが正解だとは思わないし、苦しみながら生きることが正義だとも思わない。苦しみからの解放が「死」を意味していても、死を忌み嫌って避ける必要は、少なくとも高齢者にはないと思います。

医療者も、家族も、もうちょっと「死」を肯定的に見てもいいんじゃないですか。誰にでも、いつかくるものだから。死は救いになりうるんじゃないですか。

センシティブな話題ですが、どこかで何かに見切りをつけないと、患者さん本人も、面倒を見る家族も、病院もお金を出す国も、共に苦しむだけになる。

でもシルバーデモクラシーではそんな議論さえできないと思うので、自分だけでも早く日本から脱出しようかな、と思った総合内科なのでした


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