第8章 人口減少社会に向けた5つの提言:人口減少問題に関する調査報告書 人口減少社会の展望と対策
人口減少問題に関する調査報告書 「人口減少社会の展望と対策」は公的データをベースとして、人口減少に伴う社会の変化をさまざまな角度から可視化することを第一の目的とする。また、コロナ禍による新たな変化の分析も加える。その上で、人口減少社会に耐え得る社会を築いていくための提言を行うものである。
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■真の弊害は社会が「守り」に入ること
少子高齢化および人口減少という「前例なき時代」を進んでいくにあたっては、これまでの価値観を捨て、時代に即した新たな発想で臨まなければならない。
本章では、今後の日本が進むべき方向性を提言として記すことにする。
少子高齢化がもたらす最大の弊害は、総人口に占める若い世代の割合が小さくなることで社会全体の活力が損なわれることである。
それは、人間が年を重ねるにつれて「守り」に入るのと同じだ。新しいことへのチャレンジマインドが減退し、いつまでも過去の成功体験を追い求めて、あるいは遠い未来への先行投資よりも「目先の利益」の確保にこだわるようになる。
図らずも日本社会の「老い」を印象付けたのがコロナ禍だ。世界のすべての国が「感染防止と社会経済活動の両立」という難題への対応を同時に迫られた。これほどまでに国家の力の差が表れやすい局面も珍しい。
幸いなことに日本は欧米諸国などと比べれば感染者の比率は圧倒的に少なく、ロックダウンのような強力な行動制限が実施されるような状況にない。東京圏や大阪圏といった大都市部を抱える都道府県以外では、実質的なゼロリスクを実現している。
しかしながら、政府の対応といえば、ずさんな水際対策に始まり、PCR検査体制や病床確保の遅滞、ワクチン接種直前になっての専用注射針の未調達に至るまですべてに先見性を欠いた。製薬会社によるワクチン開発も先進各国と比べて周回遅れの敗北となった。日本の弱体化を感じさせるには十分である。
各国首脳が戦争に例えるほどの国家的危機において、これほどまでに対応が後手に回り続け、各分野で体制の脆弱さや人材の層の薄さが露呈したのは、少子高齢化に伴う社会基盤の縮小や世代交代の遅滞と無関係ではないだろう。
国民生活においても、エビデンスに基づかない恐怖心が先立ち、過度に行動制限をしている人が少なくない。重症化リスクの大きい高齢者の中にはほとんど外出をしないという極端なケースが目立つ。各地の医師会などがフレイル(身体機能や認知機能の低下が表れ始める状態)による健康悪化への注意を呼び掛ける事態となっている。高齢者などの極端な外出自粛が端的に表れているのは、受診抑制や介護施設の利用控えだ。東京商工リサーチによれば、2020年の「老人福祉・介護事業」の倒産件数は過去最多の118件に上ったが、「利用控え」も大きな要因となっている。医療機関も収支の悪化が進んでいる。
2020年の高齢者数は3619万1000人だが、仮に高齢者の平均消費支出が1割落ちたならば、人口が360万人減るのと同じだ。その分だけ、国内マーケットも早く縮む。
高齢者だけでなく過度な自粛ムードは世代を超えて広がっている。科学的根拠に基づかず、ほとんど感染リスクのない事業やイベントまで中止や延期とする例はいまだに続いている。他人の行動に口出しをする「同調圧力」など、社会の「老い」の典型例だ。
困難な状況に陥るほど、課題に立ち向かい次善の策を考えるのが〝社会としての「若さ」〟である。そうした努力を早々と放棄して引きこもり、〝責任回避〟や〝無難さ〟を優先する現在の日本の姿には、生産年齢人口が増加していた1990年代前半までのような〝したたかさ〟やエネルギーが感じ取れない。
日本社会の「老化」はコロナ禍からの経済回復の足も引っ張りそうだ。例えば、国際通貨基金(IMF)が2021年1月に発表した世界経済見通しは、2021年の全世界におけるGDP成長率を実質値で5.5%と予測している。しかしながら日本は3.1%でしかなく、日本よりも感染状況が悪かった米国や欧州などよりも低く見積もられている。日本が低く見積もられたのは日本経済の抱える構造的な生産性の低さなどのマイナス要因が理由だが、これに国民のマインドの冷え込みが加わったならば、日本の出遅れは致命的になる可能性もある。
人口の激減にコロナ禍が加わって、日本はかつてない変化を求められている。こうした時代背景にあって「挑戦」を望まない姿勢を続けたのでは、日本社会は想定以上に早く衰退のときを迎える。
■提言1 若者が躍動できる環境を作ろう
こうした現状を打破するため、1つ目の提言は若い世代が自由闊達に躍動し得る環境の整備である。
若い世代というのは、いつの時代にあってもイノベーションや新しい文化の担い手である。新風を吹き込み、組織を活性化させる役割も果たす。だが、出生数の急落が止まらない日本は、こうした若い世代を急速に失っていく。
1学年当たりの学生・生徒数が多かった時代は、一般的に大勢で競い合う中で才能が磨かれやすかった。しかしながら、若者の絶対数が少なくなると競争力は弱まる。加えて、どの業種・企業も従来通りに優秀な若者を確保しようと囲い込みに走るため、さらに人材は分散しあらゆる分野で層が薄くなっていく。
こうして散り散りになった若い人材は、中高年に囲まれた組織の中でますます切磋琢磨する機会が奪われる。それどころか、大多数を占める中高年の「理屈」や「しがらみ」を押し付けられ、振り回されることとなる。
ただでさえ他国に比べて若い世代の比率が低いのに、中高年の「理屈」を押し付けられ、「しがらみ」に縛り付けられたのでは、せっかくの〝若さ〟が台無しになる。これでは日本発のイノベーションや文化は年々生み出されづらくなっていく。
数少なくなった若者が十二分に力を発揮できなければ、コロナ禍からの経済復興にも水を差すことが懸念される。
コロナ禍によってダメージを受けた経済は「世界恐慌」と比較されるほどに傷ついた。世界的な感染収束後には、各国が一斉に回復に向けて動き出すが、老化した日本の出遅れが懸念される。
コロナ禍からの経済復興の出遅れ回避はもとより、日本が人口減少社会においても経済成長を続けていくためには、人口が増えていた時代以上に若い世代の突破力が重要となる。斬新な発想や新しい能力を延ばしていくためには、中高年が数の多さにものを言わせて足を引っ張るようなことがあってはならない。
イノベーションにしても、新しい文化にしても、そう簡単には生み出されるわけではない。一見すると無駄に思える研究に打ち込んだり、世界の激しい競争環境に身を置いたりする中で、いくつものトライ・アンド・エラーを繰り返しながらつかみ取るものである。
しかしながら、若い世代が大きく減ると、新入社員までが〝即戦力〟として絶えず結果を求められるようになる。そうなれば、余裕はなくなり当座の成績を上げるべく前例踏襲に飛びつくだろう。新風を吹き込むどころか、新入社員でありながら中高年と同じ発想となってしまう。とても新しいものを生み出すことにはならない。
そこで、一つ目のアイデアとしては、結果を急がずに研究や国際的な人脈作りに打ち込めるよう、優秀な人材が切磋琢磨する機会を得られる仕組みを設けることだ。「期限を定めない研究」や「海外への留学」への参加の機会を国が創設し、財政面のバックアップやキャリアアップのルートを作ることである。
もう一つのアイデアは、「若者特区」の創設である。若い世代のみが暮らす都市を全国に数カ所に設けるのである。
日本全体では若者の絶対数が減るが、寄せ集めればそれなりの規模となる。東京都を含めて日本全体が年老いていく中で、極めて異質のエリアが誕生することとなる。同世代の若者が職種を超えて集まり住むことで、新たなアイデアや流行・ブームが生まれ、日本の経済成長に向けた活力の源となるだろう。これからの日本には、高齢化率が5.7%に過ぎなかった1960年のような社会は現れない。日本全体が高齢化するからこそ、高度経済成長期のようないエネルギーに溢れる環境を作ることには意味がある。
■提言2 国として必要な人材を育成しよう
2つ目の提言は、日本の成長を担い得る人材の育成だ。
教育は「国家百年の計」である。資源小国である日本は、優秀な人材を輩出し続けられるかどうかが国勢を左右する。
残念ながら、日本の出生数のあまりに急激な減り方を見る限り、すべての分野の人材を育成することはできない。
子供の絶対数が足りなくなるのだから、人手か足りなくなる職業に場当たり的に人材投入をしたら、今度は別の職業で足りなくなる。
しかも、一つの職業の不足を手当てしても問題が解決するわけではない。例えば、医師不足だ。地域医療の担い手が減ったとの声を受けて、政府は医学部の定員増を図った経緯がある。しかしながら、医療現場で不足しているのは看護師も検査技師も同じだ。医療分野にだけ優秀な人材をどんどん送り込んでいったならば、他分野の専門人材が不足する。それは巡り巡って救急隊員の不足につながり、患者は病院にたどり着くことはできなくなる。病院を建設する作業員が足りなくなれば、そもそも医療は提供できなくなる。これからの日本では「すべての職業」で後継者が不足するのである。
現状では医学部など一部を除き、どのような人材を、どこの学校で何人育成するのについて国家としてのビジョンがない。このままで進んで行ったならば、どの分野も専門家の層が薄くなり国際競争力に敗れるだろう。日本の
〝強み〟が無くなっていくということだ。
ただでさえ、日本は各国と比べて産業分野が広いとされる。少子化によって、そのすべてを残せるわけではないだろう。国際連携を強化して、任せられる分野は任せるといった割れ切りが必要となる。
もちろん日本は職業選択の自由が保障されているので、学生・生徒に強制することはできない。だが、子供数が少なくなればなるほど、個々の適性や希望を踏まえて国を挙げてバックアップする態勢が必要となってくる。
全員を対象にすることは無理だとしても、まずは日本が国際競争力を保ちたい分野や、新たに強みを持たせたい分野、国家として最低限必要と考える分野を定める。その上で、年間出生数に応じてそれぞれに最低何人の育成が必要なのかを計算し、国立大学をはじめとする公的教育機関において調整を図って育成することである。
成長が期待できる分野に優秀な人材が流れ込むよう誘導策を図ることも重要だ。そのためには国費生として就学費用を政府が支援するのも方策であろう。
成績優秀な学生については、生活費を含めた就学にかかる費用のすべてを政府が支援することにすればよい。国費で学んだ人には、卒業後の一定期間は国家公務員などとして国家の仕事に就き、身に付けた知識や技能を社会に還元することを義務付けることである。
さらに、一定程度の基礎学力を身に付けた段階で、年齢にかかわらずどんどん進級できるようにすることだ。高齢化が進むほど、優秀な若者をどんどん登用して能力を発揮できる環境を作っていかなければ、社会から活力が失われていく。
あらゆる分野で人手不足が広がっていくことを考えれば、若くして職人技を学び、そこで身に付けた技能が資格として認証されることはもとより、社会的ステータスとして高く評価され、相応の収入を得られるよう産業の仕組みを整えることも求められる。日常生活を支える技術者や職人が不足したら、社会は機能しなくなる。
■提言3 少量生産・販売モデルに転換しよう
3つ目の提言は、企業のビジネスモデルの転換である。
高度経済成長期の成功体験もあり、日本企業の経営は売上高や業界シェア、従業員数といった数字の拡大を追い求めてきた。人件費を欧米諸国よりも抑制することで価格優位性を確保する薄利多売のビジネスモデルである。
こうしたビジネスモデルは、日本の内需が拡大の一途をたどっていた人口増加時代においては、極めて有効な手法であった。おかげで我が国は短期間で経済大国にのしあがることができたといってもよい。
しかしながら、人口減少社会においてはこうした経営モデルは成り立ち得なくなる。日本企業の多くは内需を中心として成長してきた経緯もあるが、人口減少に伴う内需の縮小が避けられないからである。
業種によっては海外市場の拡大や取り込みに活路を見いだすという選択肢もあるが、経済がグローバル化して、あらゆる商品のコモディティ化(機能や品質による差異が減少し、商品価値が普遍化、汎用化されること)が進行している。すべての企業が優位性を持っているわけではなく、新興勢力として世界の企業競争に参入してもすべてが勝てるわけではない。
それ以前の問題として、コンピューターの普及により、日本よりも人件費が低水準にある開発途上国でも質の高い製品やサービスを生み出すことが可能となった。世界有数の経済大国となった日本においては、もはや人件費の優位性は失われ、薄利多売型のビジネスモデルは実質的に瓦解している。それを無理して続けてきただけなのである。
それでも、技術力に勝り、日本企業にしか提供できない製品やサービスが 次々と生まれているのであればもう少しは続けられよう。だが、残念なことに、そのような状況で無くなって久しい。
それどころか、勤労世代が激減していく状況下では現行の生産体制を維持することすら難しい。いつまでも量の多寡や業界のシェアに固執するのではなく、人口が激減し切ってしまう前に、少量販売でも利益率が上がる経営モデルへとシフトすることが不可欠なのである。
少量販売でも利益率を上げるためのポイントは2つある。一つは付加価値を高めることだ。1つ当たりの製品やサービスが高く売れるようにすることである。これには技術力のアップだけでなく、顧客ニーズの変化を的確に把握し、それに応え続けることが必要となる。
もう一つは、労働生産性の向上を図ることである。これにはデジタル化の推進が不可避だ。業務の効率化や省力化を図ることはもとより、さまざまなデータと結びつけていくことによって新規需要の掘り起こしや新サービスの提供を絶え間なく行うことである。
人口減少によって国内マーケットが縮むことに加えて、企業活動まで少量生産・少量販売のモデルに転換したならば、日本の国内総生産(GDP)は当然ながら小さくなる。1つの企業のレベルに置き換えて考えるならば、売上高は落ちることとなる。だが、勤労世代も減っていくので、1人当たりが生み出すGDPや売上高、利益高でとらえればむしろ大きくなる。
分かりやすく数字を単純化して説明しよう。社員が100人で100万円の利益を上げている会社があるとする。少量生産・少量販売の経営モデルにシフトしたことで利益高が50万円になったとしても、勤労世代の減少に伴って社員数も50人に減っていれば、1人当たりの利益高は同じ1万円だ。
他方、付加価値を高めることで1つ当たりの価格を上昇させ、さらには生産性の向上によってコストを下げることに成功し利益高を80万円にできたならばどうだろうか。
利益高は現状の経営モデルの100万円を下回るが、社員1人当たりが生み出す利益高は1万6000円となる。これならば賃金を上げることも可能だろう。
こうしたビジネスモデルは、ブランド品を製造販売するヨーロッパ企業が参考となるだろう。少人数ながら、こだわりのデザインや品質の高さは、高価格であっても顧客をつかんで離さない。
国全体としてみても、日本よりも人口が少なく、GDPも小さいヨーロッパ諸国の多くは豊かな暮らしを実現している。人口が少なくなったとしても、1人当たりのGDPさえ増やせたならば、国民の生活はいま以上に豊かにできることを証明していると言えよう。
ビジネスモデルは企業経営者の判断によるが、本格的な人口減少を迎えるタイミングにあって、政府の誘導策が求められる。
■提言4 地域ごとに人口集約都市を作ろう
4つ目の提言は、地域ごとに人口集約都市を作ることである。
コロナ禍で「地方回帰」の機運は高まっているとはいえ、実際にIターン、Uターンをする人は少なく、流れが大きくなっているわけではない。地方創生は苦戦続きであり、消滅の可能性を指摘される地方の展望は開けないままだ。
なぜ、政府の地方創生政策は手詰まりなのか。その要因の一つは、長期ビジョンの目標値として「2060年に1億人程度の人口を確保」という目標を掲げたことだ。「人口は減らないもの」という幻想を前提としたため、各自治体の地方版総合戦略にはあり得もしない将来人口推計を掲げるところまで出てきた。
もう一つは、地方創生の語る「地方」が、既存の基礎自治体を指すことになったことだ。本来は、人口が激減して成り立ち得なくなることへの対策を考えるべきだったのに、既存の基礎自治体の延命が目的となったことである。結果として、相変わらずの地域活性化策が後を絶たない。
だが、総人口の激減ぶりを考えると、すべての基礎自治体が現在の姿のまま存続するというのは現実的ではない。人口が激減する基礎自治体同士の合併も解決策どころか、時間稼ぎの策ともならない。
社人研の推計では、2045年までに人口が7割以上減る基礎自治体は少なくない。もはや既存の基礎自治体を前提として地方創生を考えても対応し切れない。
今後、地方創生を考える上での「地方」とは、既存の基礎自治体ではなく、地域ごとの生活実態に即したエリアとしてとらえ直すべきであろう。
移住を推進することで定住人口を増やそうという動きが強まっているが、地域の人口激減スピードを補う規模で移住者が増えることは想定しづらい。総人口が激減していく以上、定住者を基礎自治体が引っ張り合ったとしても〝勝者〟はいない。
むしろ、人口が減っても持続し得る街づくりに全精力を傾注したほうが生産的である。日本列島に、人口が減っても豊かに暮らし続けられる人口集積都市を、一つでも多く生み出すことである。
そのためには、各地域の人口を集約することだ。一定の人口規模があればスケールメリットが得やすい。行政サービスや公的サービスも人が集まっていれば効率的に提供できる。
戦後の日本は郊外へ市街地を拡大する街づくりをしたので、人口が減り、人々がまばらに住むことになったので社会インフラの維持費がかさむこととなる。やがて住民の使用料金に上乗せされる形での負担増として跳ね返ってくる。人口が増えていた時代の社会インフラの維持コストは原則として世帯数による割り算となっており、人口減少で世帯数が減ると1世帯当たりの維持コストは高くなる。
例えば、水道料金である。総務省の資料によれば、有収水量の日量のピークは2000年の3900万㎥だが、人口減少に加え、節水機器の普及などによって各家庭の1人当たりの使用水量が減少したため、2014年には3600万㎥に減った。人口が一層減る2060年には2200万㎥に減るとみられる。
この資料では人口が2027年の1万2000人から、2047年に8000人に減るモデルを紹介しているが、供給単価が上昇し続けるため、4人家族の場合、2027年の3957円から10年後の2037年には7335円となる。2047年には3.5倍の1万3661円だ。年金生活者が増えてくることを考えればと、家計への打撃は相当大きいものとなろう。
人口集約を図らない場合の生活コストの増加は、水道だけではない。電柱を建てる電気は保守点検費用がかかる。人がまばらにしか住んでいない地区にも郵便配達員を配置させざるを得ない。水道代にせよ、電気料金にせよ、あまりに利用料が高くなったら市街地の住民から全員が均等に負担することへの不満の声が上がるだろう。
国土交通省の資料によれば、2033年には建設後50年以上経過する道路橋が約63%、下水道管きょが約21%に達する。人口規模の割に広がり過ぎた社会ではインフラの維持管理や更新のための費用が大きな重荷になるということだ。人口を集約すれは、生産力不足が改善し、民間サービスの撤退を止めることにもなる。
このような状況になったら、既存の基礎自治体をすべて維持することはできない。そこで、人口集積都市は既存の基礎自治体をベースとしないことだ。人口規模が20~30万人であれば、かなり多くの民間サービスが維持し得る。もう少し小さな人口集積都市が連携して20~30万人の商圏を形成するのもあり得よう。これを実践しているのが富山県富山市だ。LRT(Light Rail Transit・次世代型路面電車)などの公共交通網の沿線に住宅をはじめ、商業施設や企業、文化施設など都市機能を集積させたエリアを配置していくというユニークな取り組みである。市関係者はこうしたエリアを〝お団子〟に、公共交通機関を〝串〟に見立て、串にお団子がいくつも刺さっている〝お団子と串の都市〟として説明している。
ポイントとなるのが、人口集積都市においては世代を超えて助け合うコミュニティーづくりだ。これには先行事例がある。香川県高松市の中心に位置する「丸亀町商店街」だ。注目すべきは、商店街の上部を居住スペースとし「人が住める商店街」に生まれ変わらせたことである。
同時に、商店街の店舗について業種の偏りをなくし、飲食店、日用雑貨、生鮮食料品、診療所まで生活に欠かせない機能をそろえた。買い物だけでなく各種手続きやサービスの利用まで日常生活における用事のほとんどを商店街の中で歩いて済ませられるようにしたのだ。居住物件の価格も高齢者に配慮して抑制したことで、かつて郊外に移り住んだ人々が戻ることとなり、商店街にも活気が戻ったのである。日中や休日には学生アルバイトや若い買い物客も目立ち、世代を超えた交流の輪が広がっている。
丸亀町商店街のようなコミュニティーを作ろうと思えば、ストリート型の商店街だけでなく大型ショッピングモールでも可能だ。
広大な敷地を誇る大型ショッピングモールならば居住スペースを増築するにもスペースの確保に困らない。モール内は完全なバリアフリーなので高齢者や障害者も移動しやすい。ここに住宅が併設されたならば住民は雨の日には傘をささずに〝街中〟に繰り出すことができる。ショッピングモール側にしても、自動車を運転できなくなった高齢の顧客を安定的に確保できるし、住民を顧客としてだけでなくパート従業員としても当て込める。
人口集積都市のポイントはもう一つある。特色ある企業を創出、誘致することだ。第3の提言として掲げたような高付加価値の製品やサービスを生み出す企業は、大都市よりも20~30万人の都市のほうが特色を出しやすい。
ヨーロッパの地方都市には、世界的に有名なブランド品の工房が立地し、地域住民の雇用の受け皿になっていたりするが、そうしたイメージである。
戦後の日本は薄利多売のビジネスモデルを確立するために、東京や大阪といった大都市に資本や人材を集め、そこに立地する本社の企画部門、開発部門が頭脳の役割を果たし、地方には工場を建設してより安い人件費で製品を作るといった態勢を築いてきた。それが最もコストカットできる仕組みだったからである。
だが、この仕組みのせいで、地方に住む若者の大都市への憧れが強くなり、人材の流出が加速した。人口減少社会においては、こうした分業体制はうまく機能しない。
今後は、人口集積都市に立地する企業において、企画から商品開発、販売まで企業活動のすべてをその内部で行うのである。
製品開発や海外のニーズを把握するマーケティングには高度な技能や技術が不可欠である。海外の顧客と直接交渉するには貿易実務や語学力も求められる。このような、大学などで学んだ知識や身に付けた技能を活かせる仕事があるならば、地方であっても就職する人は増えてくるだろう。人口流出は止まり、Uターンも進むだろう。
結果として、企業は小規模でも利益率が上がり、各人口集積都市は住民の世代交代が進んで活性化することとなる。企業が人口集積都市に根を張ることで、世界にとってなくてはならないエリアを目指すのである。全国各地にできる人口集積都市は、人口減少時代において大都市に代わる産業拠点となるだろ。
兵庫県西脇市が取り組んでいる「西脇ファッション都市構想」などは有望なモデルとなりそうだ。
西脇市といえば、伝統工芸品の播州織で有名だが、これを21世紀に合った商品として発展させるべく、大都市から若者を「育成デザイナー」として迎え入れ、ファッションクリエーターに育て上げているのである。
地元企業も人材の育成を通じて、高品質な最終製品を増やしており、播州織のみならず「西脇」という名前自体をブランド化し、付加価値を高めようということである。
播州織は、生地の開発から糸染め、織り、加工のすべてを産地内で一貫生産することが特長である。いまや播州織に魅せられた若者たちが移住してきており、熟練した職人に学び、才能を開花させつつある。既存の発想にとらわれない斬新な商品開発に成功し、起業して東南アジアなどに進出するまでになった成功者もいる。
いまやインターネットが普及し、日本国内のどこにいても世界と直接つながることができる。各人口集積都市内で業務を自己完結することは十分可能である。
こうした人口集積都市づくりは、個々の基礎地方自治体や企業だけではできない。政府を挙げての政策の後押しが重要である。基礎地方自治の概念やスタイルを大きく変えることとなる難事業だ。だが、これぐらい大胆なことを完遂しなければ、人口減少という「国難」に対応することなどできない。
■提言5 高齢者向け低家賃住宅を整備しよう
5つ目の提言は、高齢者の「同一エリア内2地域居住」と高齢者向け低家賃住宅の推進である。
人口集約都市やコンパクトシティーを実現していく上で、最大のハードルは住民の合意の取り付けだ。
誰もが住み慣れた自宅から離れたくないものである。土地への愛着もあり、公共の利益というだけでは進まない。引っ越ししたならば、近隣住民や通いなれた店舗とも縁が切れていく。「人口が減る地域を切り捨てるのか」という批判も出よう。居住移転が個人の自由であることは憲法第22条で保証されている。引っ越しを強要するわけにはいかない。
とりわけ高齢になると難しい。収入は年金が中心であり、生活環境の変化は精神的な負担ともなる。しかしながら、社人研の推計では2045年までに高齢化率が8割近くなる基礎自治体も誕生する。山間地では、すでに住民全員が80代、90代の一人暮らしという集落も広がっている。こうした集落に地域包括ケアシステムのサービスを提供することは困難になっており、日用品の買い物すら公的にサポートできない状況となっている現実も直視しなければならない。
引っ越しを余儀なくされる人々の心中は察して余りあるが、人口減少は誰にも止められない国難であり、公共の福祉を求めざるを得ない場面が出てくることは仕方がない。このまま問題を先送りし続けたとしても状況を改善することにはならず、政府や基礎自治体はいずれかの段階で腹をくくり、しっかりと責任を取りながら協力を呼びかけていくしかない。
強要ができない以上は段階を踏まえながら折り合いをつけていくこととなるが、一つは期間を定めた上で、人口集積都市に住むインセンティブを付与することだ。周辺地域から人口集積都市のエリア内に移り住んだ人に対して、住宅取得にかかった費用などの一部を「協力金」名目で公費負担したり、住民税や水道光熱費を減免したりする方法が考えられる。
もう一つは、年金を主収入とする高齢住民向けに「同一エリア内2地域居住」を推進することである。長年住んできた自宅はそのままとし、人口集積都市内に低家賃住宅をセカンドハウスとして提供するのである。例えば、週末のみ長年住んできた自宅に戻るような暮らし方である。
考え方としては、「日本版CCRC」に近い。CCRCとは「Continuing Care Retirement Community」の頭文字を取った略称で、高齢者が健康なうちに集まり住み、生涯暮らすことができる生活共同体のことである。高齢者施設とは異なり、CCRCを拠点として仕事先へと通勤したり、大学で学び直したり、趣味や旅行に出掛けたりするアクティブな暮らしを想定している。
「同一エリア内2地域居住」の高齢者向け低家賃住宅の整備が民業の圧迫とならないよう、福祉的政策として展開することである。単に住宅として提供するのでなく、住民コミュニティーへの参加を義務付ける。居住する高齢者全員が「役割」を持ち、そこに住む高齢者同士の交流や支え合いはもちろんのこと、人口集積都市内において世代を超えた支え合いや趣味などの交流の輪にも加われるよう仕掛けを作るのである。
自宅から遠く離れるわけではないので、自宅と低家賃住宅の往来はしやすい。地域の高齢者全員が移れば、近所の人々との付き合いが途切れることもない。
CCRCというと、広大な敷地を誇るリゾート施設をイメージしがちだが、「同一エリア内2地域居住」の場合には家財道具の大半は自宅に置いておくので、1人当たりの居住面積はさほど広くなくても済む。ワンルームマンションのような規模で十分に事足りるだろう。わざわざ新築する必要もなく、既存施設をリノベーションして積極的に活用すればよい。
高齢者向け低家賃住宅と介護事業所を隣接あるいは併設できれば、「同一エリア内2地域居住」の大きな動機付けともなろう。
繰り返し指摘してきたように超長寿化に伴って一人暮らしや高齢者のみの世帯が増加する。元気なうちは低家賃住宅に集まり住み、要介護状態となったならば隣接する介護事業所のサービスを受けられるようにするのだ。家族や地域社会のサポートを前提とした「地域包括ケアシステム」は広がりを欠いているが、これなら一人暮らしの高齢者に対しても「地域包括ケアシステム」を機能させやすくなる。
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