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第63話 露腸亭日乗 排泄と文学
人工肛門になって以来、どうしてもトイレ・排泄に関心が行ってしまう。
AVではスカトロ物というジャンルがあるが、ヘンタイと思われたくないのでnoteでは取り上げない。
今回は格調高く、こころに残ったトイレ・排泄物に関する描写がある文学作品を取り上げてみたい。
未読、かつ関心がある方は是非一読いただきたい。
太宰治「斜陽」 立ちションする貴婦人
最初に取り上げるのは太宰治の「斜陽」である。
先鋒から大物ぶつけてみました。
太宰ですよ。太宰。
いつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でお池の端のあずまやで、お月見をして、狐の嫁入りと鼠の嫁入りとは、お嫁のお支度がどうちがうか、など笑いながら話合っているうちに、お母さまは、つとお立ちになって、あずまやの傍の萩のしげみの奥へおはいりになり、それから、秋の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、「おしっこよ」
いかがであろうか。
「本物の貴族」である主人公の母の優雅さを強調する目的なのだろう。
冒頭のスープを麗しく飲む場面から一転、貴婦人の立ちションである。
太宰治はやはり天才である。
「斜陽」を読んだのは中一か中ニだったと思う。異様に興奮した記憶がある。
(そっちかい!)
司馬遼太郎「燃えよ剣」 土方歳三と沖田総司が野糞をする
中堅は国民的歴史小説家の司馬遼太郎。
「土方さん」
と、沖田は妙な声でいった。
「なんだか変だよ。お尻の菊座のあたりがむずむずしてきちゃった。変にそこだけがふるえるような華いような
「こまった坊やだな」
「失礼ですが、そこの桑畑で済ませてきますから、待っててください」
「早くしろ」
土方と沖田が初めて斬り合いに臨む場面。
相手を不意打ちにするために接近するさい、緊張の余り沖田が便意を催してしまう。
この後、土方も沖田と並んで野糞をする、という展開だ。
この前に土方が戦術家の片鱗を見せるところを描写しておいて一転「野糞」である。更にこの後は沖田総司の天才的な剣技を強調した斬り合いの場面になる。
緊張から弛緩、そしてクライマックスに持って行く司馬の作家としての妙技、超絶技巧である。
現在だったら大変なことになっていただろう。
「ワタシの総司さまになんてことさせるのよ!この○○」とか、
「総司さまはウンコなんかしません!頭煮えてんとちがうか!」
などと沖田総司フリークの女どもから非難轟轟になったことだろう。
ほかの作品でも、伊藤博文や井上馨に野糞させたり、風呂屋で湯女が客に小便をかける場面を書いている。
また、「翔ぶが如く」の冒頭で川路利良にパリ行きの列車の中でした大便を窓から投げ棄てさせている。
もしかして司馬はこっち関係の話が好きだったのかもしれない。
荻野アンナ 「蟹と彼と私」 臨終のパートナーの摘便に立ち会う
最後は女流の登場である。
荻野アンナは芥川賞作家であり、歴としたフランス文学の研究者である。現在は慶應義塾大学文学部名誉教授。
「蟹と彼と私」は荻野自身とがんで亡くなったパートナーの実話に基づいた小説である。
ただしフィクションと実話(らしきもの)が渾然一体となっており、それが異様な効果になり読者を幻惑する。
エンゼルケアで肛門から掻き出された大便が亡くなったパートナーの生の象徴として扱われ、主人公(荻野)の感情の直接描写が無い分かえって悲哀を感じる。
後半、河童になって手術を見る場面もある(凄い迫力)が、この摘便の場面がこの作品の白眉である、と自分は思っている。
少し長くなるので原文の引用はしないので、是非お読みになっていただきたい。
作中、がんに関して調べまくった知見を開陳しているので、がんについての啓蒙書としても使えるかもしれない。
※荻野自身も後年大腸がんになり手術を受けている。人工肛門は造っていない。
ラブレーの研究をしたためか、排泄物について抵抗感が無いようで、エッセイなどでガルガンチュワの尻拭きネタを嬉々としてお書きになっている。
下ネタも大好きで東スポの連載エロエッセイを書いている。ただ、教養が邪魔してかエロ度はいまいちか?
おしまい 続きは無いと思う。たぶん