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第60話 露腸亭日乗 塩野七生「再び、ヴェネツィア 」
塩野七生は好きな作家の1人である。
「アカンやつ」シリーズとして取り上げるのに躊躇したが、敢えて言挙げする。
もしかしてバチが当たるかも知れない。
最初に塩野七生を読んだきっかけは何だったろうか?
倉橋由美子から女流&高知繋がりで手に取ってみた?
二十代のことで茫漠としている。
初めて読んだのは何だったか?
「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」か「レパントの海戦」のどちらかのはずだ。
その後は「ローマ人の物語」からの歴史エッセイを毎年心待ちにして三十有余年である。
さて、今回の「再び、ヴェネツィア 」であるが、「三つの都の物語」三部作の完結編あるいは後日談としての位置づけであるので、この作品を読んだ方のほとんどは前三部作を既読のはずだ。
果たして書かれる必要があったのか?
皆さんいかが思いますか?
自分は三部作で完結の方が良かったと思っている。
三作目の「黄金のローマ 法王庁殺人事件」で長編としての主人公マルコ・ダンドロの物語は終了したと思う。愛するオリンピアも死んじゃったし。
前半は、その後のマルコの日常と仕事が淡々と描写され、失われたものたちへの哀感に満ちているが、そのうちエピソードがブツ切りというか、時間経過が駆け足になる。
後半はかなりの部分が「レパントの海戦」(塩野七生の小説の中で最高作と自分は評価)と重複しており、同盟成立過程や海戦描写が、どうしても必要だったか疑問だ。
バトル書くのが大好き、というのは知ってますが。
枚数水増し疑惑である。この時代までストーリーを引っ張る必然が感じられないし、触れない終わり方も出来たのではないか?
ブェネツィアの頂点から衰退への変化点をどうしても書きたかったのか、第四次十字軍を手玉にとったエンリコ・ダンドロの子孫という設定の主人公に思い入れがあったのかもしれない。
「海の都の物語」は塩野自身も思い入れのある作品ではないかと勝手に自分は思っている。最後に回帰したということか。
主人公マルコの死(老衰?)で物語は終わるが、登場人物に仮託した塩野の読者への挨拶ではないかと勘繰っている。
「ギリシア人の物語」のあとがきで歴史エッセイはもう書かない、と宣言しているし、もう小説も書かないという宣言。
2024年末時点で4年間新作ないから可能性大だ。
色んな点で残念である。