私が『推し』という言葉を使わない理由

『推し』という言葉が最近では幅広く使われるようになってきた。もともとはアイドル界隈でよく使われていた言葉であったが、今では食べ物や政治、趣味など、様々な分野で目にするようになった。この変化自体は否定すべきものではない。言葉の使われ方は、時代とともに自然に変化していくものだからである。

ただ、私自身はこの『推し』という言葉を使うことができない。というより、使うことが怖いのである。使ってしまうことを想像するだけで、ぞっとしてしまうほどだ。

最初に明確にしておくべきことがある。私は『推し』という言葉を使う人を否定しているわけではない。使いたい人が使うことに何の問題もない。人を傷つける意図がないのであれば、誰にもそれを咎める権利はないし、してはならないのだ。

私はこれまでアニメや漫画、同人誌など、様々な趣味を広げてきた。そして舞台にも出会った。関わってきたコンテンツのほとんどが『推し』文化と近い関係にあった。それでも、私は意識的に『推し』を作ることを避けてきたのである。『推し』を作ってしまうと、何かが「終わってしまう」ような気がしたからである。

私にとって『推し』とは、大好きで仕方がなく、全力で永遠に応援する覚悟がある対象を指すものである。しかし、私にはその覚悟がない。私の感情には常に波がある。とてもハマっている時期もあれば、そうでもない時期もある。その波が繰り返し続いているのである。だからこそ、永続的な約束をすることができないのだ。

また、これは私の偏見かもしれないが、『推し』という言葉には全肯定につながる危うさを感じるのである。私は、相手のどこが魅力的なのか、どこが尊敬できるのか、どんな努力をしているのかを常に考え続けることで、その人への好意が保たれると考えている。だから、全肯定は避けるべきなのである。

そして最も避けたいのは、好きという気持ちが薄れているのに、「推している」という事実だけで応援を続けることである。そんな形だけの応援なら、しない方がよいと考えている。

めんどくさい考え方かもしれない。だが、これが私が『推し』という言葉を使えない、使うことを恐れる理由なのである。​​​​​​​​​​​​​​​​

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